最近は仕事でセクハラ・パワハラ・モラハラ三拍子揃ったCDばかり聞いている

気付けばもう今年も終わりそうで、不思議なことにこのブログは今でもちらほら見に来てくれている人がいて、また思い出したように書いている。

思えばこの数ヶ月、「まとまった文章を書く」ということをとんとやってこなかったように思う。理由は色々あって、多分今年の6月~9月いっぱいくらいが今までで一番仕事が忙しかった。それと同時に、別方向で少し「将来のために人間関係をもう一度頑張ってみよう」みたいな気持ちがあって、そもそも「書く」ための時間を取って来なかったのだ。(こんなことは後からこうして文章にしたところで言い訳にもならないけれど)

そもそも、ブログを書くことは仕事でもなければ義務でもないし、誰かに強制されていることでもない。私にとって「書くこと」は、息抜きと称してたまにふらっと実家に帰るような(オメー現在進行形で実家暮らしだろというツッコミは野暮です)、そんな感じの位置づけである。だから、気が向いた時には思ったことを書くし、そうじゃない時には書かない。

 

幸い、今は精神的にも肉体的にも近年の内ではかなり安定していて、自分の興味のあることとかやりたいことが少しずつ分かってきているような感じで、それはとてもよいことだなあと手前味噌にも思う訳です。結局のところ、色々な意味での余裕がないと、文章を書こうという気持ちすら湧き上がって来ないものだ。まあそれはノイローゼになった時の話なんですけれども。今になって思うと、あの時は本当にキツかったな。

さて、しかし、いざこうして何を書こうかと考えていると、自分で思っていたよりも己の心が良い意味で凪いでいることに気付く。それは感動がないとか何も思わないとかそういうことではなく、漠然と、ああ何か今すごく良い感じなんじゃない、この感じでいけたらいいんじゃない、という。もちろん去年ノイローゼになる羽目になった職場から脱出するべく転職はしたい(既に累計20社くらい受けて全部落とされている)。一人暮らしもしたい(お金がないっ)。お金もたくさん欲しい(ひとり暮らししたいし化粧品が欲しいし余裕があるならソシャゲ課金だってしたい)。でも、そういうすぐにはどうにもならないことばっかりを並べて暗い気持になるくらいだったら、何かもうご飯がおいしいしいいやって気持ちでいられた方が幸せなのかもしれない。それが良いとか悪いとか、そんなことはどうしたって別に他人に決められるものではないのだ。

 

ガチ恋も落ち着いたしね……。これは多分自分がその界隈の方々と一緒に仕事をする機会を得たからっていうのもでかいだろうな。もともと芸能人とかに対してめちゃくちゃに憧れを持つタイプではないので、完全にビジネスの上での付き合いをしたことでいい意味で熱も落ち着いたしその方面に関して言えばかなり冷静に物事を見ることができるようになった気がする。その上で趣味を仕事にするべきかどうかについてはあえて深入りしないけれども、特別後悔がある訳ではないし、むしろ彼らが普段きちんとプロとして仕事をしていることを素直に尊敬できるようになったかもしれない。この辺りの話は完全に自己満足なので呼び飛ばしてください。もう遅いけど。

 

ここ最近の特記事項と言えば、外においしいものを食べに行く機会が増えたことくらいだろうか。やっぱり、「あれが食べたい、ここに行ってみたい」っていう申し出を快諾してくれて一緒に出掛けてくれる人がいるっていうのはそれだけで人生の大きなアドバンテージになるなと思った。(これは周りと比べてという意味ではなく、純粋に自分の人生においてという意味で)
それで、そうこうしている内に、意外と自分はお店を探したりそこに出掛けていくことが好きなのかもしれないという新たな発見もあったりして面白い。私はわりと自他共に認める引きこもり体質の人間だと自負していたけれど、何やかやで行ってみたいお店が尽きない。やってみたいこともたくさんある。それって実はすごい進歩なんじゃない?って感じだ。

 

寂しい時に話を聞いて欲しいとか、隣にいて欲しいとか、一緒にいる人に対して求めることは本当に個人それぞれだと思うのだけれど、私の場合は「一緒においしいご飯が食べたい」という欲求がかなり大きな部分を占めているような気がする。多分かなり小食な方だしお酒もめちゃくちゃ弱いけど、私にとってご飯を一緒に食べていて苦にならない相手というのはとてもとても貴重なのだ。
別に趣味だって全部が全部一致していなくてもいいし、相手に何かを押し付けるようなことはしたくないから(この辺りはバランスだろうけど)自分の好きなものを過度に勧めることもしないけど、多分あそこのお店に行きませんかっていうお誘いを断られるのが一番堪える気がする。分からないけど。

 

あと最近思うことと言えば、自分の中途半端さくらいだろうか。フェスでウェイウェイ騒ぐバンド人間にもなれなければ生粋のオタクにもなりきれず、かといって同じ年頃のマジョリティにも迎合できない、いまいちポジショニングの定まらない自分。オタクであることのコンプレックスは今はそれほどないけど、だからといって言いふらすことでもないし、グッズ収集欲もない。更に言えば声優さん関係のイベントも苦手である。失礼な話だが、「オタクの集団」と同じ場所にいることに関する精神的苦痛がエグい。これはもう私個人の問題なので誰が悪いとかではない、と思いたいけれど。
でもこういうことは周りにそれをそれとして認識してくれる友人が一人二人いればそれでもう満足できてしまうし、繰り返しにはなるけど、今のところそれなりにうまくやっている。絶好調ではないし、毎日が楽しいことだらけだと胸を張って言える訳じゃないけど、それなりにうまくやっているのだ。それで十分だと思う。

 

ネットで誰かが言っていた。「自分に甘く、他人に甘くで良いじゃないか」と。正直、その通りだと思う。もっとも、私の場合、気を抜くとすぐに「自分に甘く、他人に厳しく」のクソ人間コースまっしぐらになってしまうので気を付けないといけないのだけれど。でも、自分の駄目なところを認めた上で他人にも寛容になるって、シンプルだけど多分それだけでぐっと生きやすくなるような気がしている。恐らく母が典型的な無意識に「自分に厳しく、他人に厳しく」するタイプの人で、それが原因で家族関係に軋轢が生じているように思うので、私はとことんダメな自分を甘やかすことにしている。その分、近しい人のダメさ具合も気にならなくなるというものである。といっても、まだ学生だった頃は、かなり他人の欠点が気になって口うるさく言っていたと思う。色々な人、申し訳ない。

 

最後にちょっとだけタイトルについて書いておくと、まあ読んで字のごとくなんですけど、仕事で女性向けシチュエーションCDに触れる機会がありまして、何作かぶっ続けに聞いたってだけの話です。どうしてあんなにいきなり犯罪ムーブな言動のオンパレードになってしまうんだろう……これは別に女性蔑視だとかそういう話がしたいのではなく、純粋に聞き手はこういうのを求めているのだろうかという素朴な疑問です。あれを聞いていると「『私』とは、自我とは、主体とは」みたいな問いが浮かんでくる。好き合ってる者たち、みな合意の上で明け透けに幸せにセックスしてくれよな。それが一番です。