もうずっと長いこと「自分は選ばれない側の人間」だと思い込んでいた

この世には選ばれる側の人間と選ばれない側の人間がいて、自分は確実に後者だと信じて疑わずに生きてきた。これは人間関係に限った話ではなく、何と言うか、社会的生物としての固有スキル『残り物 EX』を背負わされているような感じ。

そして、その考えは今でも完全には払拭できていない。何度も何度も落とされた転職活動での面接の思い出や過去の非モテがおれを苦しめる……。

どうしてこうなってしまったのか、少し遡って考えてみたい。

 

■出生~幼稚園卒業
この辺りについては大した記憶もなく、正直理性的存在とは言い難かったと思うので割愛。
ただし、幼稚園には既に家族公認のボーイフレンドがいたらしい。やるじゃん、ワシ。

 

■小学生時代
既に一端のオタクだったが、クラスの子たちはみんな良い子ばかりで、特に排斥されたりすることもなかった。
この時点ではまだ選ぶ/選ばれないということを特別意識するようなことはなかったものの、既に自分がメインストリームからは離れたところにいたという自覚はあった。

 

■中学1~2年
特にこれと言ったヤバヤバエピソードがある訳ではないが、クラスのそんなに派手じゃないグループの中でこれと言って目立つことなく過ごしていた。

この辺りでRADWIMPSに傾倒して明確に頭がおかしくなる。野田洋次郎の日本語を標準語として摂取していた子どもがまともな人間に育つはずがない。そういう意味では一番黒歴史の時代かもしれない。
当時まだRADWIMPSが同世代の間ではマイナーだったこともあり、この頃には確実に「選ばれない側」の自意識が育っていた。

 

■中学3年
人生で一番男女問わず人との接点が多かった1年間。自分でもどうしてなのかとんと分からないが何故かクラスで一番派手なグループの子たちともそれなりに仲良くやっていた。世界は不思議で満ちている。

この1年に限って言えば、私は「選ばれる側」の人間として振る舞っていたと思う。オタクであることに変わりはなかったけど、それをひた隠しにして笑っていたし、何より自分はそれなりに需要があるのだと勘違いしていた。

実際、卒業アルバムに載っているこの頃の写真の私は現在の5億倍イキイキした顔をしている。後から見直してこれは結構ショックだった。(今は死んだ魚のような目をしているし、友達と自撮りをすると高確率で「殺し屋?」と言われる)

 

■高校1~3年
ART-SCHOOLに出会ったせいで人生が死んだ。amazarashiに出会ったせいも少しあるかもしれない。きのこ帝国も結構悪さをしていると思う。

周りがEXILEセカオワを聞いている中、どうしてか「子宮へ子宮へ子宮へ」とか歌っている曲をヘッドホンで爆音で聞きながら登校していたので、完全に「自分は選ばれない側の人間だ」と思い込むようになった。誰に言われた訳でもないのに。

下手に男子サッカー部のマネージャーなんてものになってしまったのも良くなかった。キラキラしたサッカー男児たちに囲まれながら「彼らと私はどうやっても分かり合えない……」とか心の隅っこでいつも思っていたんだからそりゃ馴染めないわ。

マネの同級生の女の子にも多分大概迷惑を掛けたと思う。ただそんな彼女は今某改名バンドのファンらしいが、何故ハイスタが好きな先輩に憧れていたのにそこにいってしまうんだ。女心って複雑……。


とまあこれ以上ぐだぐだ書いても仕方がないのでまとめてみるが、恐らくこの「選ばれない」観念が生じたのは中学1、2年の頃で、3年で盛り返したもののそのままリア充()になりきれなかったのは単純に私がドクソサブカル愛好人間だったからだろう。
基本的にメインカルチャーに馴染めないと思っていたし、中学校という狭いコミュニティにおいて、そういう趣味の合う合わないは人間関係を築く上で致命的な問題だった。

実際、私は物心ついた頃から恋愛ドラマとかバラエティよりもアニメとか漫画の方が好きだったし、高校生になった頃にはもうどっぷり男性声優の沼に落ちていた。
柿原徹也さん、その節はお世話になりました。私の10代はあなたの支えなしにはとても乗り越えられなかった。(大学受験の時、教室の隅でヘッドフォンで柿原徹也のアルバムを爆音で流しながら勉強していたことが思い出される)

そして、メインカルチャーから逸れた人間は非モテ街道をひた走ることになる。片田舎の公立中学・高校なんてそんなもので、ちょっとでも変な趣味を持っていたりすると「キモい」の一言で排斥されるのがオチだ。
幸い、私のクラスには基本的に善人が多かったので大っぴらにいじめられたりはしなかったが、それでも異性からは恋愛対象として見られてはいなかったと思う。
私は別に恋に生きているタイプではないけど、仮にそうだとしても、14歳くらいの多感な時期にそういう意味で異性から選ばれないという経験は結構尾を引くものだ。

 

とにもかくにも、こんな感じで私はずっと「選ばれない」ことに対するコンプレックスのようなものを抱えて生きてきた。
大人になって漸く「不特定多数にモテないことは別に悪いことでもないし私が劣っているからでもないな」と気付くことができたけれど、それでもこうした選ばれない意識を今でも完全には拭い去れていないのは、転職活動で来る日も来る日も選考に落とされ続けているからだ。
まあこれに関しては企業とのマッチングとかあるから仕方ないんだけどね……それでも精神的にクるものはキます。それでももうどうにかこうにかやっていくしかないところではある。

あと、このブログではちゃんと書いてないけど、結局大学時代に付き合っていた人としんどい思いをしながら付き合い続けていたのも「選ばれた」という事実を手放すことができなかったからなんだよな~~と今になって思う。「私はこの人と別れたら次はもう選ばれない」と本気で思っていたので。

選ばれ続けるために努力をして、言いたいことも言えずに我慢ばっかりしていた。でも、そんな関係性が上手くいく訳もないし、当然精神的にはいつも不安定だった。私は多分、相手のことを「自分を選んでくれた人」としか認識していなかったし、極論相手のことなんて人間として全然好きじゃなかったのだ。もしタイムマシンが使えたら当時の自分に「目を覚ませ!!」と喝を入れに行きたいなと思ったけど、過去に戻るんなら宝くじ買う方が全然いいな。

 

ただ、こと人間関係(特に恋愛関係)については「相手だけじゃなくて自分にも選ぶ権利がある」ということがようやく分かってきたので精神的には大分楽になったように思う。
何を言うにも「マッチングアプリで人生変わった」みたいになってしまって恐縮なのですが、結局この進歩もマッチングアプリ様様なところがあって、相手の情報や言葉を考慮した上で「選ばない」という行為を能動的に何度もも行えたのは非常に良かった。オイオイマジかよといった感じだが、これまでは自分が選ぶ側に立つという考えすらあまり持ち合わせていなかったのだ。
マッチングアプリにはもちろん様々なリスクはあるけれど、私のように人生経験が乏しいというかあまり能動的に密な人間関係を築いてこなかった人間にとってはめちゃくちゃ有益なツールだと思う。本当に。

 

そんな訳で結局今回も業者の回し者みたいな結論になってしまったが、「自分は選ばれない」という意識は本当に厄介でこれが加速するとどんどん人生が投げやりになってしまうので、こうして文章にすることで私自身が少しでも生きやすくなると良いなあと思う。

趣味も、人間関係も、仕事も、私にだって選ぶ権利があるのだということを忘れないようにしたい。不特定多数に選ばれないことを嘆くより、例え多くはなくても自分が選んだものを大事にできるようになりたいと思う。 

Ghosts&Angles

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現在お仕事で「Pathee Epic」の記事を書いています。東京のとっておきのお店を店舗での体験を交えて紹介するメディアで、写真がとにかく最高なのでぜひ覗いてみてください。

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