「かわいそう」という言葉の持つ戦闘力がカンストしている

13時。さあ待ちに待った昼休みだと喜び勇んで会社の廊下を歩く。少しヒールのある靴を履いていたから、あまり人気のない廊下にカツカツと踵を踏み鳴らす音が響いたりして、これはちょっと気持ちがいい。

エレベーターに乗る。私の前を歩いていた2人の社員さんと乗り合わせたので、「お疲れ様です」と軽く会釈。

狭い空間に大して心を許していない人間と閉じ込められるのがどうにも居心地が悪いので、私はエレベーターが苦手だ。早く1階に着かないかなあと段々小さくなっていく液晶の数字をじっと見つめていると、乗り合わせた2人の会話が嫌でも耳に入る。

「……さんのお父さん、確か10年以上前に交通事故で亡くなってるんだよね」
「えーっ、かわいそう」

耳を疑った。
かわいそう? 彼女は確かにそう言った。

何て独りよがりに言葉を選ぶ人だ、と思った。
多分、別に彼女のその言葉に深い意味などない。知り合いが早くに交通事故で父を亡くしたという事実について、本当にシンプルに一番最初に出てきた言葉がそれだったのだろう。

けれど、それは何というか、ひどく冷たい態度だなと思う。(ニュアンスの問題なので、そう感じない人ももちろんいるだろう)
「かわいそうに」なんて言葉は、自分が徹底して相手に対して「関係ない者」でないとするりとは出てこない気がする。

 

洋画を見ていると、故人についてコメントする時は大抵「I'm sorry.」と言う。字幕だと「お気の毒です」とか「残念です」とかそんな風に訳されることが多いけれど、これはすごく便利な言葉だなと思う。

英語は主語・述語がはっきりしているので、「I'm sorry.」という一言には「私はそれを気の毒に思います」という文構造がしっかりと内包されている。
けれど、日本語の「かわいそう」という言葉には、何だか話し手の感情がこもっていないように感じられる。

そもそも、誰かの不幸(死に関わらず)について聞いた時、本来「ああ、それは……」とか「そうなんだ……」とただ受け止めるだけで良いんじゃないだろうか。

「かわいそう」なんて誰が決められるのだろう。これは幸せについても言えるけれど、誰かにとっての幸・不幸を第三者が品定めすることなんて本来できないはずなのだ。

にもかかわらず、彼女は咄嗟に「かわいそう」と言った。別にそれは責められることではない。ないかもしれないけれど、私は少し悲しくなった。

もし自分にすごく悲しいことがあって、それをポンッとシャボン玉が弾ける時のような軽やかさで「かわいそう」なんて言われたら、多分私は耐えられない。
あなたに何が分かるの、と憤るだろうし、どうしてそんなに高いところから人の不幸を見ているの、と恨めしく睨みつけてしまうかもしれない。

こんな風に考えてしまうのは私が捻くれているからなんだろうか、と考えながらケンタッキーに行く。
頭の中があまり綺麗でない時も、チキンフィレサンドは変わらず美味しい。


お昼にチキンフィレサンドを食べたが、夜も鶏肉料理のお店で友達と食事。

ユッケ風鳥タタキ、カマンベールと鶏肉のフリット、チキン南蛮、何もかも美味。1枚くらい写真を撮っておけばよかったかな、と思わないでもないが、私は大抵撮るより先に食べたい人だ。インスタバエよりハラゴシラエが大事である。というかそもそもInstagramをやっていない。

たくさん話した。フィーリングの合う相手と話していると、人と話すのってやっぱり本当は楽しいことなんだよなあ、と気付かされる。

私は今まで散々「自分のことがかわいそう」「私ってこんなに不幸」「どうしてあの人はうまくいっているのに私は駄目なの」と恨み言を言い続けてきたなあ、とぼんやりと思う。

けれど、今現在進行形の私はそれなりに、というか多分すごく幸福で、それは誰にも邪魔できないし、私の幸せはまるきり全部私のものだ。そして、それは決して悪いことなんかじゃないはずだ。

お酒を2杯飲んで、日付けが変わる頃に上機嫌で帰宅。昨日ほどではないが、今日も少し寝坊した。