病名でもついたら
ここ数日は通勤中に学生時代によく聞いていたandymoriをまたじっくりと聞いているのだけれど、クレイジークレーマーの「病名でもついたら いじめられないし もう少しは楽なのかな」というくだりが学生時代にとても好きだったことを思い出した。
別にいじめられていた訳ではなかった。でも、如何ともしがたい生きづらさのようなものは常に感じていた。
大人になった今考えてみれば、学校というコミュニティは本当に笑っちゃうくらいに狭くて、そこだけが全てじゃないんだけれど、そんなことは当時は分かるはずもない。
ここ最近は「今、大丈夫だからいいや」と思えているので、色々あるけど何とか生きていこうかなという気持ちでいる。
改めて考えてみるとあと6日ほどしか出勤日がないことに気付いて、あっという間だなあと思う。
職場全体に対する寂しさとか未練とかそういったものははっきり言って皆無なのだが(繋がっていたい人には退職後も自発的に連絡を取るつもりだし)、そろそろデスクの中身を持って帰らないといけない。
コンビニでカップ麺を買うと、アルバイトの店員さんがいつもお箸とスプーンをつけてくれる。しかし、私はカップ麺のスープを飲む時にスプーンは使わない。そういう訳で、私のデスクの中には常に大量のスプーンがストックされているのだけれども、これを持って帰らないといけないのだ。
他にもデスクの中に鎮座している大量の資料を全部シュレッダーにかけないといけないし、やることは本当にたくさんある。何とか綺麗に去りたい。
家に帰る。例によってホルモンの影響か、何だか家族に対して無性に苛立ちを覚える。
夕飯の後、母が「保険を見直すんだけど」と切り出す。その話は前々から聞かされていたので「うん」と生返事をする。
「私たちが死んでも1円も出ないけど、それでもいい?」
いや、「それでもいい?」って聞くけど、別に私に拒否権ないでしょうよと思った。
そこで私が「いやそれじゃ困る。きっちり死亡保障をつけろ」と言ったところでどうせ「でも保険料がねえ……」みたいな話になるのは目に見えているのだ。
母は続ける。
「まあお葬式とかもそんなちゃんとやらなくていいから」
正直言って無論そのつもりである。
もともと冠婚葬祭への意識がとてつもなく低いので、はっきり言って到底自分のモチベーションが追い付くと思えない。
こう言っては何だが、仕事柄人付き合いの多い父については母が存命のうちに葬式をあげたいと思っている。私にはその場を取り仕切るだけの気力も根性もない。申し訳ないがそこだけは本当にどうにかこうにか母にやって貰わないと無理だと思う。
今少しネットで調べたら、死亡保障はそんなに必須ではないらしい。というか、よくよく考えたら母は10年前くらいまで保険会社に勤めていたのでその辺りはまあ多分大丈夫だろう。多分。そう思うことにする。
週末に人の家に入り浸っている生活をしていると、実家の居心地の悪さに少し驚くことがある。
家族とは学校と同じように閉鎖された空間で、もうずいぶん長いことそれが全てなのだと思っていた。けれど、私は自分の居心地のいい場所を外につくっていかなければならないし、何よりそうしたいのだとやっと気付いたのだ。
幸い、今はシェルターのような新しい居場所がある。この先どうなるか分からないけれど、無理のない範囲でその居場所を守っていきたい。