自由で不自由な「迷い」と生きている

「迷うことができる」という状態は、とても自由で不自由だ。
大学を卒業して、就職して2年と少し。今年で25歳になる。そういう自由さと不自由さを感じる機会は、学生だった頃に比べてうんと増えた。

 

俗に言う「社会人」と呼ばれる存在になって、学生だった頃と一番違うと感じたのは、自分で稼いだお金を自由に使うことができるということだ。学生の頃にもアルバイトはしていたけれど、1日中働いて、それが生活の中心になるというのは未知の感覚だった。

当然、自分のために自由に使うことのできるお金がポンと増えた。服や化粧品などのファッションに使うのか、本やゲームといった娯楽に使うのか、それとも堅実に貯金するのか。そういった選択の全てが自分の意志に委ねられているという状態は、自由であれど、非情に心細いものだったことを覚えている。

少し大げさな表現かもしれないけれど、私はお金の使い道にはその人の人生観が少なからず表れるものだと思っている。食べることが好きな人ならおいしいレストランでの食事にお金をたくさん費やすだろうし、旅行が好きな人なら交通費や宿泊費に使うだろう。もしその両方が好きなら、時に迷いながら、限られたお金の使い道を選択していくのだと思う。そうした小さな迷いと選択の積み重ねによって、その人の生き方が形作られていくのではないか。自分でお金を稼ぐ立場になって、そんな風に考えることが多くなった。と同時に、自分自身がが生きていく上での小さな選択をはじめて意識するようになった。

悲しいかな、私たちは「どんな風に生きていくのか」ということを考えた時に、お金のことを完全に度外視することはできない世の中に生きている(と少なくとも私は思っている)。「数年後にはこうなっていたい」という理想の未来を思い描いた時に、そのためにはこういうスキルが必要で、そのスキルを習得するために今何をしなくてはならないか、と考えていく時に、否が応でもその過程で費やさなければならない費用のことが脳裏をかすめる。そして、その過程についての熟慮の末、思い切って決断するか、やんわりと身を引くように諦めるかという話になってくるのだ。

けれど、裏を返せば、そうして「迷う」ことができるのは自分の中に僅かでも「可能性」があるからなのだと思う。何年か前にCMで「人が想像できることは、必ず人が実現できる」というジュール・ヴェルヌの言葉が流れていたけれど、それと同じで、ほんの少しでも可能性があるから人は「もしも」を想像し、そのために努力していくのだろう。そして、そこには当然金銭的な意味での可否もある程度は含まれてくる。

 

さて、私といえば。実際のところ、途方に暮れている。とどのつまり、「自分らしい生き方」が見つからずに困っているのだ。こうして文章にするといかにも陳腐で我ながら苦笑ものだが、本当にそうなのだから誤魔化せない。

冒頭にも書いたように、私は「迷うことができる」という状態はとても自由で不自由であると思っている。自分の稼いだお金を、自分の好きなように使う。そんな当たり前を、当たり前に繰り返しつつも、目の前に続いていく遥かな未来を思ってはため息をついている。

自分はどちらかというと多趣味というか気が多いタイプで、熱しやすく冷めやすい性質なので、短期間のうちに興味関心がころころと移り変わる。映画、バンドのライブ、漫画、手芸、執筆、ゲーム、コスメ、ファッション、外食……このあたりの趣味をローテーションして(当然各趣味への出費具合もころころ変わる)今に至っているのだが、どれか1つでも夢中になって極めたものがあるかというと、答えは恐らく「ノー」。急に何をやっても無意味にしか思えなくなる時がきて、そのうちまた次の趣味に……という不毛なサイクルを繰り返している。

(ちなみに、散々お金の使い道云々という話をしているものの、よくその場その場の刹那的な衝動で雑貨を買ったりするので、基本的にいつも金欠状態である。買い物をすることで何かを埋めようとしている……とまでは言わないけれど、それに近しい部分もある気がしている。「お買い物が趣味です」と胸を張って言えればいいのだが、このお買い物もある意味前述の趣味ローテーションの一環とも言えるので微妙なところだ)

そうした中で、自分が自信をもって続けていける趣味(生活の楽しみ)や、それの積み重ねによって訪れる未来について想像ができなくて落ち込む日が多々ある。そんな風に難しく考えなくても、と思われるかもしれないが、私はとにかく今の自分がひどく宙ぶらりんな存在に思えて仕方がないのだ。

 

今年の3月に縁あって実家を出て人と一緒に暮らすようになって、その思いはますます加速していっているように思う。相手が何かひとつのことに夢中になりその趣味への投資を惜しまないでいる姿を見ると、その人が楽しそうに過ごしていて嬉しいと思う反面、夢中になれるものがあることへの羨望や嫉妬のような感情が浮かび上がってくる。こんなことではいけないと思いつつ、日々模索しながら生きているというのが現状だ。

また、ここまではお金の話が中心になってしまったが、新卒で入社した会社を2年で辞め、転職した時にも同じような心細さを感じていた。どんな職業に就くか、その選択の自由が与えられているという事実に直面して、自分で自分の人生を形作っていくことへの漠然とした不安を覚えたのだ。

会社を辞めて、自分の人生を、生き方を、自分で決めていくということをはじめて実感した(遅いよ)。そういう迷いと決断の繰り返しで、自分という存在の中に芯のようなものができてきて、外側の輪郭もはっきりしてくるのだ。私の輪郭は(というか芯も)、まだまだふにゃふにゃのゼラチン質だけれど。

自分の望む方法でお金を稼いで、そうして得たお金を自分の好きなものへ使う。そんなシンプルな構図を、私は自由であり不自由であると感じてしまう。
どうやって働くか、何にお金を使うか。どうやって、どんな風に、生きていくか。毎日毎日、私の中で大小さまざまな迷いが生まれては消えていく。消えていく、というよりも、私自身がそれを見送っているという方が正しいかもしれない。そうして、消えていったそれらを一丁前に名残惜しく思いながら、何となく日々を浪費している。

 

24歳の今の私には、10年後はおろか、5年後、3年後の自分の未来さえ、霞の向こうのぼんやりとした影のようにしか捉えられない。どんな風に働きたいのか、どんな風にお金を使いたいのか、そして、どんな風に生きていきたいのか。「これだ!」というドストレートな答えが見つかればまた違うのかもしれないが、私の性格上、それも難しそうだ。大学生の頃にサークルの先輩に言われた「お前はどこで何をしていても『どうして私はこんなところでこんなことをやっているんだろう』と考えずにはいられない性質だと思うよ」という言葉が、今になって胸を刺す。

けれど、この自由な不自由さの中で、私は生きていかなければならない。自分の好きなものも、これにならお金も時間も惜しまないと思えるものも、私自身が見つけていかないことには、誰も教えてはくれないのだ。そして、そうやって不自由さの中で生まれた迷いを、少しずつ受け止められるようになりたい。それらしい言い訳を並べて自分の可能性を自分自身で狭めるのは、もうやめたい。

自分自身への宣言として、こうして文章に、言葉にできてよかったと思う。