東京は、個性が自由に遊ぶ街

物心ついたときから、私はずっと「住む人を否定しない街」に住みたかった。個性を受け止めてくれる街、と言い換えてもいいかもしれない。

今から20年と少し前に私が生まれた土地は、「街」というよりも「町」という言葉の方がしっくりくるような、若者よりも老人の方が幅を利かせている片田舎だった。
住所としては東京都に属しているものの、23区からは遠く離れ、埼玉との県境に位置している。特徴と言えば他の街よりも少しだけ病院がたくさんあるくらいで、こうしてこの文章に向き合っている間にも書くべきことがこれといって浮かんでこないくらい、面白みのない郊外のこじんまりとした場所だ。

 

大学生になって、髪を盛大に脱色し、自分で稼いだお金で好きな服を着るようになった頃だろうか。私はその街で、たぶんかなり「浮いた存在」だった。
現在進行形で知人に「将来草間彌生みたいなババアになりそう」と言わしめるファッションセンスの持ち主なので仕方がないのかもしれないが、少し外を歩くと、擦れ違う人たちから何となく好奇のまなざしを向けられていると感じた。自分の個性が「おかしなもの」としてとらえられていることに少なからず落胆し、同時に少しの寂しさを覚えた。

 

私と同じように、「大した娯楽施設もなければ都心へのアクセスも良い訳ではない中途半端な片田舎」での時間を過ごしたことのある人であれば何となく通じると思うけれど、そういう閉塞的な空気の漂う場所では、「人と違うこと」は往々にして許容されない。そして、それは年寄りに限った話ではなく、その街で生まれ育った若者の間にも言える。

「昨日のドラマ面白かったよね」
「Mステ見た?」
「女の子なのにアイドルに興味ないの?」

小中学生なんてそんなものかもしれないが、「メインカルチャーしか受け入れる気はありません」という気概がビンビンに溢れた会話が繰り広げられる教室はつらかった。当時の私にとって、月曜と言えば月9が放送される日ではなく週刊少年ジャンプの発売日であったし、ジャニーズなどのアイドルがたくさん出演しているような音楽番組にもまるで興味がなかったからだ。

 

小学生の頃は気にならなかったその断絶が、中学生になって「取り繕う必要があるもの」に変わった。周りと違うものが好きでも、それを主張しすぎると村八分にされてしまう。恋愛ドラマを見て、男性アイドルに熱狂して、流行りの歌を聴き、みんなと同じ服を着る。そういう振る舞いが求められる世界だった。
高校生になって、世界が少しだけ広がった。それまで一人きりで聴いていたバンドも、自分と同じようにそれを好きだと言う人がいることを知った。

そして、大学生になった私が知ったのは、自分の生まれ育った土地がいかに狭く閉鎖的な場所だったか、ということだった。多少時間が掛かっても実家から遠い都心の大学に通った意味があったと、今でもしみじみ思っている。

都会の人は、みんな自分の好きなファッションをしていた。好きな音楽を聴いていた。自分の好きなものを、胸を張って好きだと言っていた。それはまさに青天の霹靂で、東京に住んでいながらはじめて都心の空気に正面から触れて、「こんな街があるのか」と目からうろこがナイアガラのごとく落ちた。

 

それから時は流れて、気付けば社会人3年目。今年のはじめからは、縁あって実家を出て、中目黒や代官山へもほど近いある街で暮らしている。
決して大きな繁華街ではないけれど、休日になれば、様々な個性をもった人々が通りを行き交っている。そして、その誰もが、道行く人々の個性をいい意味で気に留めていない。
東京は、都会は、冷たいところだろうか。確かにそういう側面もあるのかもしれない。けれど、誰もが自分の個性を犠牲にしなくていい場所であることも確かだと思う。

もちろん、都心から離れた場所には、喧騒とは無縁のゆったりとした時間や地域の密な関わり合いなど、良い面もたくさんあるだろう。けれど、そのコミュニティからドロップアウトしてしまったものを受け止めてくれるのは、きっと雑然とした東京の街だ。

 

その街の空気を決めるのは、そこに暮らす人たちに他ならない。街というものは、そこに住む人が一緒につくっていくものだ。

だから、私にとっての住みたい街は、「住む人を否定しない街」。誰もが思い思いに個性を楽しむ、この東京だ。

書籍化記念! SUUMOタウン特別お題キャンペーン #住みたい街、住みたかった街

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by リクルート住まいカンパニー