つくりものでも

元気があれば何でもできるけど逆に元気がなかったら何にもできなくない?

ライブには通えるうちに通おうね

今週は何だか体感5秒くらいで過ぎ去ってしまった。特別忙しかったというよりは、気持ちと体力の余裕がなかったという方がたぶん正しい。帰ってきて、泥のように眠って、起きて。そうこうしているうちにあっという間に土曜日だ。

 

今日はお昼から髪を染めに出掛けて、帰り際、前々からずっと行こうと思っていた図書館へ寄る。自宅から歩いて10分ちょっとの場所に図書館があるのはありがたいことだ。小説を何冊かと、哲学の入門書を借りた。

棚の前で何を借りるか迷いながら、本当に最近は全く本を読んでいなかったな、と再認識する。本というものを読んでいなすぎて、自分が何を読みたいのかも分からない状態になっていることに気付いた。おすすめの作品や作家さんについて、Twitterなどでぜひ教えてもらいたい。今は何だか普段の自分では手に取らないようなものも読みたい気分だ。

ハードカバーが詰まったずっしりと重たいトートバッグを肩にかけて、家までの帰り道にある小さなカフェへお邪魔した。入ってみると、カフェというよりも「居間」という印象で、お年を召したご夫婦が営んでいるらしかった。私の他に客はなく、ご主人がソファに座ってゴルフ中継を見ている横で、アイスコーヒーをいただきながら4人掛けのテーブルに腰掛けて『桐島、部活やめるってよ』を4分の1くらい読んだ。

帰り際、ご主人に「どんな本を読まれるんですか」と声を掛けていただいて、「今読んでいるのは小説なんですが、大学で哲学を勉強していたので、哲学書も少し」とややかっこつけてしまった。その言葉が嘘にならないように本をたくさん読もうと誓う。「っまた図書館に来た時にお邪魔してもいいですか?」と尋ねると、「ぜひどうぞ」と応えてくださって、何だかすごく心がぽかぽかする。昨日も帰り際にタクシーの運転手さんに「お疲れ様、おやすみなさい」と声を掛けていただいて、ちょっとしたことなのにすごく満たされたのを思い出した。

家に帰って、そのカフェの話をすると、Kさんも「すごく良い場所」と笑ってくれた。きっと2人で行くことはないだろうし、それでいいのだけれど、自分の良いと思ったことを聞いてもらえて頷いてもらえるのはとても嬉しいことだ。

 

昨日、ライターのながちさんのブログを読んで衝撃を受けた。

takachi.hatenablog.jp

私も学生時代はART-SCHOOLばかり聞いていて、そして、同様にLUNKHEADも好きだった。今でも大事な曲がいくつもあって、思い出したように口ずさんでいる。

この「思い出したように」というのがまさにこのブログの記事とリンクしていて、自分の生活や聞く音楽があの頃とはもう変わっていて(それ自体は何も悪いことではない)、いつしか私はLUNKHEADというバンドのことを気に掛けないようになっていた。

だから、20周年ツアーのことも、このブログではじめて知った。衝撃だった。小高さんがブログにあんなに赤裸々に「チケットが売れていない」と書いていることも、LUNKHEADがそんな状況にあることも。

小高さんも書いているように、社会人になったり結婚したり、生活が変わっていく中でライブに行けなくなるのはもちろん仕方のないことで、離れていってしまった人たちが悪い訳ではない。けれど、それが積み重なって、20周年のこの状況なんだよなぁ。そう思うと本当に胸が痛い。

この件に関して私はどこまでも外野で、ツアーファイナルの日にはじめて知ったくらい、LUNKHEADとの距離は離れてしまっていた。もしリアルタイムで見ていたらチケットを買っていただろうと思うけれど、後の祭りだ。

バンドを続けていくには音源の売り上げとかライブの動員とかそういう「数字」が確かに必要で、たぶん、それは私が思っているよりもずっとシビアな世界なんだろうと思う。だからこそ、月並みな話だけれど、応援しているバンドのライブには行けるうちに行っておきたいと、そんな風に改めて思った。私の買うチケットが、少しでも彼らの音楽が鳴り続けるための助けになってくれたらいい。

a flood of circleというバンドのことをもっと愛していたいし、彼らの鳴らすまっすぐなロックをもっと聞いていたい。という訳で、微力ながら、次のツアーにも足を運びたいと思います。

「愛」を言葉に――『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』で涙を流せるようになった自分へ

少し前に、Netflix京アニの『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』を見た。見始めたきっかけは前職の時に上司が「泣ける」と評していて気になっていたからなのだけれど、正直言って、舐めていた。結果としては、ヴァイオレットが依頼主のために手紙を書く回、毎話号泣。アニメでここまで泣かされたのは初めてだった。

tv.violet-evergarden.jp

この文章はアニメ批評ではないので、本編のストーリーやキャラクターの解説などは行わないけれど、ざっくり言うと「愛を知らない軍人の少女(ヴァイオレット)が、唯一自分を人として扱ってくれた相手(少佐)が今わの際に残した『愛してる』という言葉の意味を知りたいと望み、人々のために手紙を代筆する仕事を始めることになる」みたいな感じ。

とにもかくにも、物語のテーマは「愛」。ストーリーの中で何度も登場する「『愛している』を、知りたいのです」というヴァイオレットの台詞の通り、この作品は、戦災孤児で人を殺める術だけを身につけて生き延びてきたヴァイオレットが、手紙の代筆を生業とする「自動手記人形(ドール)」として、戦争が終わった後の世界で様々な人々の「愛」に触れて成長していくという筋書きとなっている。

私が殊に涙腺をやられたのは、ヴァイオレットに手紙の代筆を依頼する様々な依頼主の「愛」だ。それは妹から兄へ、父から娘へ、母から娘への家族愛だったり、恋人への愛だったり。ヴァイオレットはドールとして様々な依頼主の手紙(時には歌詞やお芝居の脚本)を代筆する。

もうこれが1話1話本当に、本当に素晴らしくて、誇張なくデフォルトで泣いていた。多分一番ボロ泣きしたのは10話。「親子の話か~……」とタカをくくっていたこともあり、本当に最後の方はリアル「涙で画面が見えない」状態。6話も最高だったな……上村くんの芝居が本当によかった……。

ストーリー、作画、劇伴、声優さんたちの演技、どれをとっても非常に高水準で、その辺りについて書こうと思えば恐らくいくらでも書けるのだけれど、前述の通り批評をしたい訳ではないので、今回はこの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』をテーマとして借りつつ私の話を書かせて欲しい。

 

ここまで「愛」が前面に押し出されている作品って、恐らく誰しもがちょっと警戒するものだと思う。事実自分もそうで、序盤のうちは「ああ、この愛を知らない少女が愛とは何たるかに辿り着くお話なのね」とあまりのめり込めずに見ていた。

けれど、このアニメは、ヴァイオレットだけが主役なのではない。ヴァイオレットに手紙の代筆を依頼する依頼主のひとりひとりも主役だ。というか、物語の主題の「愛」は、ヴァイオレットから少佐への「愛」だけでなく、もっと普遍的で些細な日常の中にある「愛」なのだ。それは祈りであり、営みであり、呼吸と同じように私たちに必要なもの。何でもない日々に満ちているもの。そうした描かれ方をしている。

唐突に自分語りを始めて恐縮なのだけれど、私もヴァイオレットと同じように、「愛している」が分からない。頭では理解できるけれど、それを心の奥底から実感することができない。 そんな風に思いながら生きてきた。だからこそ、少し大げさな言い回しではあるけれど、この作品は私にとってのひとつの「教科書」であり、「光」だと感じた。

先ほども言及したように、この作品では「愛」を高尚なもの、劇的なものとして描いてはいない。もっとより人々の生活に根差した、言わば「実践の愛」なのだ。そして、その「生身の愛」に触れて、ヴァイオレットの中に残された「愛してる」という言葉がより体温と手触りをもつようになっていく。

 

そして、ヴァイオレットはただ街の人々の愛に触れるのではなく、代筆を行うドールとして依頼主の感情を「自分の言葉で」書いていく。依頼主の伝えたい思いを汲み取り、それを手紙というフォーマットに落とし込んでいくのだ。このアウトプットによって、ヴァイオレットの中に「愛」がよりくっきりとした輪郭を形作っていく。これは私が曲がりなりにも文章を書く人間だからそう感じるのかもしれないが、このプロセスに、私は非常に胸を打たれたのだった。

夏目漱石が「I love you.」を「月が綺麗ですね」と訳したとか訳さなかったとか、という話は有名だけれど、この作品に登場する「手紙」というアイテムも、言うなればそれと同じ文脈にあるものだと思う。誰かを愛しているという気持ちを、手紙というアイテムに乗せ、伝える。回り道のようだけれど、もう直接言葉を伝えられない相手に対する思いもしたためることができるのが手紙なのだ。

「愛」。愛とは何なのか。これはもう古の時代から長い時間を掛けて絶えず議論されてきたテーゼだけれど、私は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品に、ひとつの「愛」の形を教えてもらったと思う。本当に純粋に、誰かを想う気持ち。現実はこんなに甘くないし、もっと醜い愛もあるだろう。けれど、この作品は、毎日の中で感じる本当に本当に些細な、何でもないように思える愛しさを、「言葉」にして届けてくれる。「代筆」という行為を通じて、とりとめのない、とても言葉になんてできないような日々の愛おしさに、言葉という形を与えてくれるのだ。

 

 少し前の私(10代の頃とか、学生の間)なら、多分この作品を見ても、「だから何?」と首をかしげて終わりだったろうなと思う。今の私が涙を流せるようになったのは、人と人との密な関わりにはじめて身を置いているという状況ならではなのかもしれない。実践の愛。今自分に注がれているもの、自分が伝えているものをそう表現することが正しいのかは分からないが、日々の中にある、身近な人の気遣いに生かされているからだ。

既にちらっと書いたように、私は基本的に誰かのことを恋愛的な意味で「好きだ」と思うことがあまりない。というか、そもそも「恋愛的な意味で」という枕詞にもしっくり来ていないところがある。私にとっての「好き」は特定の相手にのみ電撃のように感じられるものではなく、対象が友達であれ何であれ、「好きな人たち」というひとつのグループにカテゴライズされている。(このあたりの話は下記のnoteに書いているので、もしよろしければ)

note.mu

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そんな具合なので、愛だの恋だのという言葉に対する苦手意識はずっと持ち続けていた。恋愛を人生の中心に据えるような生き方に対しては今でも疑問を感じることがあるし、今一緒に暮らしている相手に対しても、私の感じている「好ましさ」が恋かと言われるとそれもしっくりこないのだ。

けれど、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品は、木々の葉が日の光を空気に淡く溶かすように、愛だとか恋だとかそういった枠組みを軽やかに飛び越えた「人から人への愛」を優しく描いていた。もちろんフィクションなので、「こんなの綺麗ごとでしょう」とはねのけることは簡単だ。それでも、私は確かに、自分が生きるべき愛のひとつの形をこの作品に見たような気がした。

私は口下手で、思っていることを素直に口に出すことが苦手だ。だからこうして文章を書くのであり、喋るよりも書くことの方がずっと抵抗がない。けれど、愛おしいと思う人の、並んで横になった時にふと見える首筋の産毛や、寝息とともに上下する胸を見た時の、あのぎゅうと胸の真ん中の部分を掴まれたような、それでいてなまぬくいあの感覚。あれを言葉にすることはひどく難しいと、文章を書くたびにそう思っている。もがきながらもドールとして成長していくヴァイオレットに、私はいつの間にか自分を重ねていたのかもしれない。

好きな人と一緒に暮らすようになって、彼と私の関係は、既に家族のようになっているように思う。生活と生活が交わる中で、同じ家に住む前には見えなかった相手の一面や真摯さに触れる度、今の自分はなんて幸福なのだろうかと怖くなることさえあるくらいだ。そして、日々、私の中にはこれまで抱いたことのなかった様々な気持ちがぽんぽんと芽生えている。

そして、そうして新たに生まれた感情を相手に伝えようと思った時、やはり私はそれに「言葉」という形を与えたい。それは必ずしも相手へ直接届く手紙でなくてもいい。書くということそのものに意味があるのだと思う。自分の中に芽生えた感情を書き記しておくことで、もういなくなってしまった過去の自分の言葉を受け取ることができるからだ。

 

何だか書きたいことが色々とあってまとまらなくなってきてしまった。とにもかくにも、私は自分の中に芽生えてきた感情を言語化するということに関して、この作品ある意味ですごく勇気をもらったのだった。

あとそういうこと関係なくマジでアニメとして本当に素晴らしいのでみんな見て……お願い……。おわり。

 

自分の外側の殻を内側から破ること

脱皮だ。これは脱皮。何も怖いことではない。
そんな風に自分に言い聞かせながら、はてなブログの名前をペンネームから本名に変えた。

名前というのは不思議なもので、私は自分の名前がずっと何だか他人事のように思えて、未だに自分で自分の名を名乗ることにほんの僅かな抵抗がある。ある、のだけれども、ここ半年くらいは本名で文章を発表する機会があって、Twitterもnoteも本名での運用をしている。

私にとってこのブログは、そういうパブリックな自分から少し距離を取った心の内側のものだったし、ただ思うことを書いておきたいだけの場だったから、ペンネームのままでいいやと放置していたのだ。

はっきり言って、私は私のきちんとした名前で世に出たいとか、もっと多くの人に読んで欲しいとか、そういう気持ちがたくさんある訳ではない。あえて「全く」という表現を避けたのは、私の中にもやはりそうした自己顕示欲だとか承認欲求みたいなものは当然あるのだけれど、それを表に出すことはかっこ悪いことだと思ってしまう癖があるからだ(結局こうして書いてあるので、あんまり意味がないのだけれど)。

だから、このブログの書き手の名前を本名に変えたことも、あまり意味はない。強いて言うなら、他の場所と名前が違っているのが何となく気持ち悪かったことと、もしTwitterなどからこのブログを見に来てくれた人が1人でもいたとして、「いや星野(ペンネーム)って誰?」となるのは何だかな、と思ったからだ。

 

そんな訳で、こうして久しぶりにブログを書いていて、改めて「名前というものは不思議だなあ」なんてぼんやりと考えるなどしている。名前って、社会生活においてどこまでも記号的な役割なのに、誰かに呼ばれると確かにそれが自分を表す文字列だと思うから不思議だ。

あまり隣人のこと(そして隣人との暮らしとのこと)を必要以上に美化することはしたくはないと常々思っているのだけれど、最近私の名前を一番呼んでいるのは多分間違いなく隣人で、彼に呼ばれる度に確かに「私」が呼ばれているなと思う。

少し話は逸れるが、前に付き合っていた人のことを、私は一度も名前で呼ぶことができなかった。それは若さゆえの気恥ずかしさもあったのだけれど、でも何故か、駄目だった。

不思議なことに、あだ名は平気だ。今でも私は隣人のことを5回に4回はあだ名で呼んでいる。良くないなあと思いつつ、その方がスラスラと出てきてしまうのは、私が謎の自意識をこじらせて未だにコミュニケーションにおいての羞恥心を捨てられていないからだろうか。

自分の名前がどうにもしっくり来ていないというのもあるかもしれない。考えれば考えるほど分からないのだけれど、みんな自分の名前にしっくり来ているものなのだろうか? 私はどうも駄目だ。隣人と暮らすようになって大分改善されてきたとはいえ、未だに「みづきさん」と名前で呼ばれるより、「あなた」とかの方が自分を指しているなと感じてしまう。

と、こんなことを言いつつも、面倒くさいことに、自分の好きな人たちからは名前を呼ばれたいなと思う自分もいる。厄介なことですね。私の好きな人各位、これからもたくさん私を呼んでね。

 

少し前に、大学生の時に読んでいたショーペンハウアーの『自殺について』をさっと読み直した。訳文なので正しい表現ではないかもしれないけれど、ショーペンハウアーの言葉は読みやすいというか、比喩とか言い回しの波長が自分に合う気がする(とはいえ彼の主著とか全然読めてないので全然説得力はない)。

自殺。学生の頃は自ら命を絶つということに言語化できない抵抗があって、それはあえて安っぽい言葉を借りるのであれば「生命への畏敬の念」みたいな感じだったのだけれど、ここ数年はそんなこともあまり思わなくなった。

例えば、個人のブログやエッセイ。そういう文章の中にこそ、生ぬるい感触を伴った身近な「死」がある。そういうものを少なからず読むようになって、死がその人にとっての救いになるのなら第三者はどうやったって止めることなんてできないよなあ、と思うようになった。

一方で、私は学生だった頃に比べて格段に「死にたくない」という強い意志を持つようになってきた。それは私が隣人と暮らすようになって、彼がおじいちゃんになるのを見たいなんていう昭和の歌謡曲みたいなことをナチュラルな思考として持つようになってしまったからかもしれない。けれど、「一週間後に世界は終わりますって告知があって、何の痛みもなく一瞬ですべてが終わってしまったらいいのに」と考えて電車に揺られていた頃よりも、今の方がきちんと「生きている」感じがする。

生の濃度が高まれば高まるほど、死の濃度も高くなる。正確に言うと、濃度というよりも「立体感」だろうか。「生」の輪郭が鮮やかになればなるほど、「死」もまた底知れない恐怖の陰を伴って私の精神へと入り込んでくる。

死にたくねえなあ、とそればかり考えてしまって眠れない夜があった。この間、隣人にそんな風な話をしたら、彼は自分にもあることだと言っていた。これからも、死にたくない死にたくないと怯える夜がきっとあるだろう。

今のところ、この先ずっと生きていくことよりも、肉体的(ないし精神的)な苦痛を伴う死の方が怖い。けれど、自分の死に際を自分で決めることができたなら、それは我々人間という種のもちうるひとつの選択だと、受け入れたい。

好きなことだけして、思いっきり笑って、今が一番楽しいなと思いながら一瞬ですべてを終わりにしようよ。

自由で不自由な「迷い」と生きている

「迷うことができる」という状態は、とても自由で不自由だ。
大学を卒業して、就職して2年と少し。今年で25歳になる。そういう自由さと不自由さを感じる機会は、学生だった頃に比べてうんと増えた。

 

俗に言う「社会人」と呼ばれる存在になって、学生だった頃と一番違うと感じたのは、自分で稼いだお金を自由に使うことができるということだ。学生の頃にもアルバイトはしていたけれど、1日中働いて、それが生活の中心になるというのは未知の感覚だった。

当然、自分のために自由に使うことのできるお金がポンと増えた。服や化粧品などのファッションに使うのか、本やゲームといった娯楽に使うのか、それとも堅実に貯金するのか。そういった選択の全てが自分の意志に委ねられているという状態は、自由であれど、非情に心細いものだったことを覚えている。

少し大げさな表現かもしれないけれど、私はお金の使い道にはその人の人生観が少なからず表れるものだと思っている。食べることが好きな人ならおいしいレストランでの食事にお金をたくさん費やすだろうし、旅行が好きな人なら交通費や宿泊費に使うだろう。もしその両方が好きなら、時に迷いながら、限られたお金の使い道を選択していくのだと思う。そうした小さな迷いと選択の積み重ねによって、その人の生き方が形作られていくのではないか。自分でお金を稼ぐ立場になって、そんな風に考えることが多くなった。と同時に、自分自身がが生きていく上での小さな選択をはじめて意識するようになった。

悲しいかな、私たちは「どんな風に生きていくのか」ということを考えた時に、お金のことを完全に度外視することはできない世の中に生きている(と少なくとも私は思っている)。「数年後にはこうなっていたい」という理想の未来を思い描いた時に、そのためにはこういうスキルが必要で、そのスキルを習得するために今何をしなくてはならないか、と考えていく時に、否が応でもその過程で費やさなければならない費用のことが脳裏をかすめる。そして、その過程についての熟慮の末、思い切って決断するか、やんわりと身を引くように諦めるかという話になってくるのだ。

けれど、裏を返せば、そうして「迷う」ことができるのは自分の中に僅かでも「可能性」があるからなのだと思う。何年か前にCMで「人が想像できることは、必ず人が実現できる」というジュール・ヴェルヌの言葉が流れていたけれど、それと同じで、ほんの少しでも可能性があるから人は「もしも」を想像し、そのために努力していくのだろう。そして、そこには当然金銭的な意味での可否もある程度は含まれてくる。

 

さて、私といえば。実際のところ、途方に暮れている。とどのつまり、「自分らしい生き方」が見つからずに困っているのだ。こうして文章にするといかにも陳腐で我ながら苦笑ものだが、本当にそうなのだから誤魔化せない。

冒頭にも書いたように、私は「迷うことができる」という状態はとても自由で不自由であると思っている。自分の稼いだお金を、自分の好きなように使う。そんな当たり前を、当たり前に繰り返しつつも、目の前に続いていく遥かな未来を思ってはため息をついている。

自分はどちらかというと多趣味というか気が多いタイプで、熱しやすく冷めやすい性質なので、短期間のうちに興味関心がころころと移り変わる。映画、バンドのライブ、漫画、手芸、執筆、ゲーム、コスメ、ファッション、外食……このあたりの趣味をローテーションして(当然各趣味への出費具合もころころ変わる)今に至っているのだが、どれか1つでも夢中になって極めたものがあるかというと、答えは恐らく「ノー」。急に何をやっても無意味にしか思えなくなる時がきて、そのうちまた次の趣味に……という不毛なサイクルを繰り返している。

(ちなみに、散々お金の使い道云々という話をしているものの、よくその場その場の刹那的な衝動で雑貨を買ったりするので、基本的にいつも金欠状態である。買い物をすることで何かを埋めようとしている……とまでは言わないけれど、それに近しい部分もある気がしている。「お買い物が趣味です」と胸を張って言えればいいのだが、このお買い物もある意味前述の趣味ローテーションの一環とも言えるので微妙なところだ)

そうした中で、自分が自信をもって続けていける趣味(生活の楽しみ)や、それの積み重ねによって訪れる未来について想像ができなくて落ち込む日が多々ある。そんな風に難しく考えなくても、と思われるかもしれないが、私はとにかく今の自分がひどく宙ぶらりんな存在に思えて仕方がないのだ。

 

今年の3月に縁あって実家を出て人と一緒に暮らすようになって、その思いはますます加速していっているように思う。相手が何かひとつのことに夢中になりその趣味への投資を惜しまないでいる姿を見ると、その人が楽しそうに過ごしていて嬉しいと思う反面、夢中になれるものがあることへの羨望や嫉妬のような感情が浮かび上がってくる。こんなことではいけないと思いつつ、日々模索しながら生きているというのが現状だ。

また、ここまではお金の話が中心になってしまったが、新卒で入社した会社を2年で辞め、転職した時にも同じような心細さを感じていた。どんな職業に就くか、その選択の自由が与えられているという事実に直面して、自分で自分の人生を形作っていくことへの漠然とした不安を覚えたのだ。

会社を辞めて、自分の人生を、生き方を、自分で決めていくということをはじめて実感した(遅いよ)。そういう迷いと決断の繰り返しで、自分という存在の中に芯のようなものができてきて、外側の輪郭もはっきりしてくるのだ。私の輪郭は(というか芯も)、まだまだふにゃふにゃのゼラチン質だけれど。

自分の望む方法でお金を稼いで、そうして得たお金を自分の好きなものへ使う。そんなシンプルな構図を、私は自由であり不自由であると感じてしまう。
どうやって働くか、何にお金を使うか。どうやって、どんな風に、生きていくか。毎日毎日、私の中で大小さまざまな迷いが生まれては消えていく。消えていく、というよりも、私自身がそれを見送っているという方が正しいかもしれない。そうして、消えていったそれらを一丁前に名残惜しく思いながら、何となく日々を浪費している。

 

24歳の今の私には、10年後はおろか、5年後、3年後の自分の未来さえ、霞の向こうのぼんやりとした影のようにしか捉えられない。どんな風に働きたいのか、どんな風にお金を使いたいのか、そして、どんな風に生きていきたいのか。「これだ!」というドストレートな答えが見つかればまた違うのかもしれないが、私の性格上、それも難しそうだ。大学生の頃にサークルの先輩に言われた「お前はどこで何をしていても『どうして私はこんなところでこんなことをやっているんだろう』と考えずにはいられない性質だと思うよ」という言葉が、今になって胸を刺す。

けれど、この自由な不自由さの中で、私は生きていかなければならない。自分の好きなものも、これにならお金も時間も惜しまないと思えるものも、私自身が見つけていかないことには、誰も教えてはくれないのだ。そして、そうやって不自由さの中で生まれた迷いを、少しずつ受け止められるようになりたい。それらしい言い訳を並べて自分の可能性を自分自身で狭めるのは、もうやめたい。

自分自身への宣言として、こうして文章に、言葉にできてよかったと思う。

他人に迷惑を掛けない範囲でいっそバブバブしていたい

先日ここに書いた「またちゃんと日記を書いていきたいな」との宣言も虚しく、早速間が空いてしまっている。
土日はなんやかやと映画を見たりして過ごしてしまい、夜もそのままなだれ込むように眠ってしまうことが多く、日記をつけることを忘れてしまうのだ。それはそれで別に特段嘆くことでもないのかもしれないが、何となくズル休みをしているような居心地の悪さもあったりして、どっちつかずだなぁと心の中で苦笑いをしている。そんな毎日。

 

GWに寂しさを紛らわせるべく無駄に没頭していた筋トレも、ちょっと気が緩むと途端に忘れる。せめてスクワットだけは……と思わないでもないのだが、今日も既に忘れたふりをしてお風呂にはいってしまった。汗をかきたくないので、今日は疲れたからと言い訳をして眠ろう。

 

何だかとても眠い。まだ二十二時だしと思って途中で見るのをやめてしまっていたROMAを流しているが、全然集中できていないのでこのまま寝てしまうのもありかもしれない。そんな日があったっていい。何といってもまだ月曜日だ。ここで無理をすると木曜日あたりに布団の中で朝日を呪ってしまう。

 

やっと少し自分の足で立てるようにリズムが戻ってきてほっとしている。今週は少し本腰を入れて書きたいと思っている文章があるので、会社の昼休みに何となく構想を考えたりしている。
読んでくれている相手に何を伝えたいか、どう思ってもらえるだろうかとアウトプットの先を想像するということをサボりがちなので(仕事以外の場面で)、久しぶりに集中してキーボードを叩けたらいいなと思っている。思うだけならタダだ。口だけ侍にならないようにしっかりと時間を確保しよう。

 

自分の中の「寂しさタンク」は無尽蔵で、情けない話だが、どれだけ目を掛けてもらって愛情を注いでもらっていても、それに気付かないばかりか、もっともっととさらに強請る。いくらもらっても、もっともっと欲しいとそればかり考えてしまい、終ぞ満たされることがない。

二十四年ちょっと生きてきてまだこんな子どもみたいなことを、と思うけれど、言い換えればまだ二十四年ちょっとでもある訳で、もう仕方ないから他人に迷惑を掛けない範囲でいっそバブバブしていたいなと思ってしまうことも多々ある。良くないんだけどね。親鳥の帰りを待って延々に口を開けてるひな鳥、あれが私です。

 

世界も世界だから二年先、三年先、五年先、十年先の自分がどうなっているかなんて全く分かったもんじゃなくて、そんなことをいちいち不安に思いながら鬱々としている時間がもったいないよなとも思う。けれど、不安というものはそういう理論構造で取り除けないから不安なのであって、もちろん個人差にもよるけれど完全に不安のない快晴のまま生きていくことはひどく困難であるように私には思えて仕方がない。やっていく気持ち。やっていく気持ちが大事です。

 

先週一週間の記憶が曖昧なのと同じように、昨日から今日に掛けての記憶も曖昧だ。こういう曖昧さがまた非常に不安を駆り立てるのだが、都度やっていく気持ちを思い出していかないといけない。

どこまでも毎日をたらたらと浪費して生きている私だけれど、今日も一日頑張った。それでいい。おやすみなさい。