他人と接するときの「正解」が分からないまま25歳になってしまう

ここ最近はnoteの方に文章を書いていたのだけれど、結局はてなブログに戻ってきてしまった。なんというか、やっぱりnoteとブログとでは場の雰囲気のようなものが明らかに違っているように感じられて、私はやっぱりブログの方が好きだ。

 

仕事のことを考える時間が増えている。その過程で気付いたのは、私は自身の特性上「目の前に見えているものしか見えない」ということ。「いつかこうなるだろうから、見越してこれをやっておく」ということを長期的な(二週間先~数か月先くらいのイメージ)スパンで考えることがひどく難しいのだ。

多分、計画を立てることも苦手だ。自分はその辺りのことを全然できるだろうと思っていただけに、いざそのレールを踏み外していると分かった時はしんどいものがあったけれど、仕方ない。私はこの肉体と精神と共に生きていかねばいけないからね。

あと、単純な気付きとして、恐らくそもそもデスクワークが向いていない。ざっと指折り数えただけでも、「人が多い場所が苦手」「少しの物音が気になって集中できない」「同じ場所に居続けなければいないのが苦痛」エトセトラエトセトラ。オフィスの窓の外がよく晴れている日こそ、ズドンと気持ちが落ちやすい。空を自由に飛びたいな。

 

人とコミュニケーションを取るのは本当にきつい、それ自体がきついというよりも、未だに「正しいとされている」コミュニケーションの方法が分からないことが。他人なんてどうでもいいとかそんな風に思っている訳ではないけれど、頭の中が忙しいとき、あるいは何も考えていられないときに、誰かとの会話にまで気が回らないということが多々ある。

こういうことを言うと本当に小物感があって自分でも嫌になるけれども、その上であえて言葉にするならば、人とのコミュニケーションの中で何をどう言えば「正解」なのか、それが分からない。反対に人と喋らないからそう評されるのだろうか。分からない。ほかの人たちが「当たり前」にできていることが自分にはできないということがどうやったって許せなくて一人で泣いた夜があるか。

「あなたの言うことは正論だけれど、今求めているのはそれじゃない」と繰り返し言われたことが、今になってじくじくと胸を刺す。じゃあ一体どうしろと言うの、分からない自分が悪いの。そんな気持ちが溢れてしまう真夜中もひとつふたつではない。

 

二年ほど前か、適応障害で精神科にかかったときに、ADHDのテストを受けたことがある。その時は特にそういうきらいがあるという結果は出ず、医者は私の過去の通知表を眺めながら「今まで挫折をしたことがないから落ち込んでるだけじゃないか」と言った。くそったれ。私の苦しみは私のものだ。

とはいえ、謙虚さを忘れるのは良くないと思い直し、その医者の発言も胸に留めて生きてきた訳だけれど、ここ数週間またしんどくなっている。何が個性で、何が特性で、何が障がいなのか? もちろん全てグラデーションなんだろうけど、私が物心ついてから重ねてきたこの対人関係の違和感について、明快に姿形を与えてくれる言葉はどこにあるのだろう。

もしどこにも欠陥はありません、と言われでもしたら地獄。そう考えてしまっている時点で甘えなのかもしれないけれど、私が繰り返し感じてきたこの「しんどさ」を、「当たり前、みんなも同じだよ」と宣告されるのは私という人格の殺害に等しい。苦しさ。ギリギリで理解されないつらさ。それをまず自分自身が認めてあげたい。

このまま鬱々としていても仕方ないので、近々、暮らしている地域の支援センターに相談にでも行ってみようかと思っている。自分から動かないと状況は変わらない。何にせよ、半年から一年くらい、自分にとって何が大切でどうやって生きていきたいのかをしっかり考える時間が欲しい。