振り向いた先の暗闇に足を浸して生きていく

長い長い夢を見ているような、降り注ぐやわらかい光に向かって目的なく腕を伸ばしているような、そんな目隠しの時間を消費してきた。何も見ず、何も聞かず、少しでも自分の脆い輪郭をこそぐかもしれないものを徹底的に遠ざけてきた日々は、輪をかけて私を臆病にさせ、瞳の奥に重たい淀みが積み上がっていくのみだった。

他者との関わりを避け、自らの殻に閉じ篭り、その度に肥えていくお門違いの自尊心に気付いていなかった訳ではない。けれど、その滑稽な「私」という存在の証明を振りかざすことでしか、私は私を正しく認識することができなくなってしまっていた。

日陰から眺める日向は、いつも残酷に眩しかった。焦げつくようなその陽射しから目を逸らしても、肌をやわらかに切り裂く木漏れ日からは逃げられない。日の当たる場所を恨めしく思いながら、縫い付けられたように、陰の中から動けずにいる。

この肌を日に焼くこともなく、生温く身を包む幸福感に身を委ねて漂う日々を続けているうちに、いつしかそれが自分のアイデンティティなのだと信じて疑わなくなった。そうして自分を守らなければ、きっと心がすり減ってしまう。そんな風に姑息に予防線を張って、目まぐるしく過ぎていく毎日を中途半端にやり過ごす方法だけが身についてしまった。

誰かのことを嫌いになりたい訳でも、自分は不幸なのだと自分自身の首を非力な腕で絞りたい訳でもなかった。なのに、いつからか周りと同じリズムで呼吸をすることに苦しさを感じるようになって、新しい譜面を覚えようとしないまま、調子はずれの歌を歌い続けているような、そんな歩き方をしている。

自分自身が、見えなくなった。自分の振る舞いから目を逸らし、他者との差異でしか自己というものを咀嚼しないでいたツケが、今、私の両肩に重くのし掛かっている。斜に構えることでどうにか守ってきた、最早どうしようもなく弱く脆い存在となり果ててしまっただけの「自分」そのものが、その鈍い切っ先で私自身を抉っている。

恐らく、私は、陽射しを浴びて輝く何かとびきりきらきらしたものになりたかった。陰の中から一歩を踏み出すだけの勇気もない癖に、いつかは自分もそうなれるのだと、ただひたすらに思い込んでいた。愚かなほど無垢に。純粋に。取るに足らない小さな自分を、懸命に閉じ込めて。


文章を書くことが、言葉を生み出すことが好きになったのは、いつからだろう。そして、それを続けていくことを、諦めたのはいつだろう。この頃は、ぼんやりとそんなことを考えている。

ふっ、と息を吐いたら消えてしまいそうな、頼りない灯火。胸のうちで不安げに揺れるその小さな火を燃やしているものは、これまで受け取った、私の書いたものを読んでくれた「誰か」からの言葉だった。私がただ漠然と生きて、けれど書かずにはいられなかった詮無い文章を、素敵だと伝えてくれた人がいた。そんなことを、何も特別でないありきたりな夜に思い出している。

途方もなく続いていく時間を、どうやって生き続けていくのか。生き方を決めるということはとても恐ろしく、結局のところ二の足を踏みそうになっている。
今までずっと憧れていた、けれど怖気付いて踏み込むことをしなかった陽だまりを見送った。振り向いた先には、もがきながら進むしかない、いまは出口さえ見えない暗闇が続いていた。けれど、いま私はどうしてか、自身の胸に灯ったその僅かな揺らぎに突き動かされようとしている。陰よりももっと深く、湿った大気が肌にまとわりつくような不安が満ちたその中へ、一度でいいから足を浸してみたい。

私には好きな歌がある。私の口は、それを口ずさむことができる。私には書かずにはいられない何かがある。私の指は、それに文字という姿を与えることができる。それは、ああ、眩しいくらいの幸福に違いない。
私がいま手を伸ばそうとしている光と、ずっと指をくわえて焦がれてきた光は、もしかすれば決して交じり合うことのないものたちなのかもしれない。けれど、私は自分が見つけた光の方へと歩き出す。終ぞその光に触ることができなかったとしても、それを目指して歩いてきた足の疲労は、私だけに許された贅沢な重みに違いないのだから。