9月のとある4日間の日記

2019.09.23

数歩歩けば風に背中を押される一日だった。

台風の影響で朝からびゅうびゅうと音を立てて強い風が吹いているのを知っていたのに、まんまと買い出しに出かけてしまった。結果として髪の毛をぼさぼさにして帰ってくる羽目になって、そういうままならさこそが生活そのものだな、などと考えながら汗をかいた。

昨日は少し同居人との関わりの中で嫌なことがあって、思い返してみれば本当に些細なことなのに、その時の自分にはそれがどうしても許せなかった。こういうことは多々ある。私の場合は幸いにも一晩眠るとけろりとしているということが多いのだけれど、ふとした瞬間に「何だこいつ」と思ってしまうとそのあとの感情に歯止めがきかなくなってしまう。これもどうしようもないままならさ。

相手の言動に対するやりきれなさとか、この人と一緒にこれからもやっていけるだろうかという寄る辺のない不安は、眠っている間にどこに消えていくのだろう。もしかしたら消えているのではなくてただ見えなくなっているだけで、いつか津波のように押し寄せて私をあっという間に飲み込んでしまうのだろうか。

人と暮らすということは。自分自身を少しずつ少しずつすり減らしながら、相手にぴったりの形になるように己の輪郭を変化させていくということだ。我慢できない部分や気になってしまう部分に目をつぶれば自分の心が疲弊するけれど、それと同時に外側はどんどん相手との暮らしに馴染んでいく。そして、その危うい均衡の先に何があるかはきっと人それぞれだ。

誰かと一緒に生きていくなんて、どうしようもなく不安だ。樹木希林が似たようなことを言っていたのを覚えているけれど、こんな不安なこと、正気じゃ絶対できない。

このままで大丈夫だろうか、大丈夫でいたいな、できるかな。そんな風に考える毎日だ。寝て忘れて、起きたら二十年くらい先の未来の穏やかな二人に会えたらいいのに。

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09.24

同居人からの「頭が痛くて下痢がひどい」という連絡を受け取った。家に帰っている途中、体温計の画像が送られてくる。38.2℃。さすがにぎょっとして、簡単に口にできそうなゼリーを買って帰った。

横になっているとのことだったので起こさないよう気を配りつつ、つい先日にもこんなことがあったな、と思いながらシンクに溜まった洗い物に手を掛ける。一緒に住むようになって学んだことだけれど、彼は季節の変わり目や少し悪いものを食べてしまったときに人よりも体を壊しやすい。

起きてきた同居人が、「どうして自分の体はこうなんだ」とぼやくのがつらい。明日は絶対に休めない会議があるから仕事に行かねばならないという。仕方のないことなのだけれど、何だかやりきれなくて何も言えなくなってしまった。

自分が病気になるのもきついけれど、身近な人が苦しそうにしているのを見ているのも、体とはまた別の部分が痛い。ふと触れた背中や肩がいつもよりずっとずっと熱くて、ああこれはかなり熱が高いな、とそれ以上でも以下でもない現実を再認識した。どこまでも生きている。生きているからこその、熱さだ。

窓の外から聞こえてくる秋の虫の鳴き声をぼんやりと耳に入れながら、この文章を書いている。今回のもちょっとした風邪で、何日かでよくなったらいい。大げさだと思われるかもしれないけれど、熱を出す状態が続いたこともあって、大きな病気だったらどうしようと勝手に気を揉んでいる。底の見えない不安の沼に足をとられてしまいそうだ。

ありとあらゆる意味でいつまでも一緒にいられないことを知っているからこそ、健やかにいてほしい。早くよくなりますように。

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09.25

朝、家を出るのと同時に、私よりも先に出た同居人と玄関先で鉢合わせた。出勤するつもりだったが、病院に寄ってそのまま帰ってきたらしい。どう見てもふらふらの状態だったので、家で寝ていてくれた方が幾分か安心だ。

私は私で心療内科で診察を受けたりしていたのだけれど、ひとまず薬をやめてみましょうかという話になって少しほっとした。暫くは様子を見なくてはいけないけれど、また自分のペースを取り戻せたらいい。

いつからかこの時間はいつも窓の外で虫が鳴いていて、不規則に鳴るその音で眠れないなんていうことがよくある。眠りたいのに眠れないというのはまさに生き地獄で、目が慣れてしまってぼんやりと濃度の薄くなった闇の中で何をすることもできずぼうっとただ時間が過ぎるのを待つだけのあの感覚。今日は形のない不安に足をすくわれることなく眠りたい。

「本当のこと」なんて誰にも分からない、誰も知らない。意志だって、感情だって、理性だって、何が「ほんとう」なのかを断ずることなど誰にもできないと思ってしまうのは私の悪い癖だろうか。けれど、私たちの考えることや思うことに間違いも正しいもないんだと、そう思っていないと到底正気で生きてなどいけやしない。

夜が更けていく。

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09.26

自分は自分で思っていたよりもずっと世話焼きなのかもしれない。
冷えピタの交換だの検温だのと何かと理由をつけては相も変わらず胃腸炎で床に伏している同居人の部屋に忍び込んでいる。そろそろ鬱陶しいと思われるラインを越えてしまいそうだ。

同じ家に暮らす人間が体調を崩したとき、向こうも大人なのだから原則別に放っておけばいいのだと思う反面、自分自身が未だに甘ったれなせいで「苦しかろう、心細かろう」と無駄に構ってしまうきらいがあっていけない。病気で気が弱くなっているときは誰かが家にいてくれるだけで嬉しいし、「つらいね」と気に掛けてくれるとほっとする。そういう時のことを思い出して、つい何かしてあげたいなどと思ってしまうのだ。

とはいえ、現実問題、腹が痛い痛いとベッドの上でじっと地蔵のように動かなくなっている肉体に対して私ができることなどほとんどない。「体が思うように動かないのは歯がゆいよねえ」とか声を掛けながら申し訳程度に腹をさするのが限界だ。

体調を崩して高熱を出した彼に対峙するのはこれで三度目だけれど、未だにどこまで気に掛けるべきか距離感に頭を悩ませている。

一度目は、出会ってまだ三、四か月のころ。「私が看病しなきゃ」という自分勝手な義務感に駆り立てられて無駄に張り切ってしまい、後日「何もしてくれなくていい」と真っ向から伝えられて狼狽えた。その言葉は「自分に対して何もしてくれなくていいけれど、その代わりあなたに対しても必要以上には干渉しない」という向こうのスタンスから放たれたものだったが、今考えると道理だなと思う。別に放っておかれたって、風邪なんて数日も寝ていれば自然と治るのだから。

二度目はついこの間で、三度目は現在進行中だ。一緒に暮らし始めると相手の存在が否が応でも自分の生活の一部になるので、買い物に行けばどうしても「ゼリーを買い足しておこうか、スポーツドリンクも買っておこうか」などと考えてしまう。
向こうも向こうで、さすがに近くに物理的に頼れる人間がいれば頼らざるを得ないらしく、私はちょこちょこおつかいを頼まれたりしている。あんまり頼りすぎると罪悪感が募るようだけれど、何を今更、こちらは普段分担している家事をこの数日間すべて一人でこなしているんだぞと思ったりもする。人を頼ったり頼られたりするのって、決して簡単なことじゃない。

反対に、私が寝込んでいる場合にはこちらが頼まなくてもゼリーを買ってきてくれたり労りの言葉を掛けてくれたりする訳であって、やはりそれは私にとってとてもありがたい。当然ながら、「一緒に住んでいるんだからここからここまではやってあげなきゃダメ!」という物差しもなければ「そこまでしてやる必要はない!」という線引きも存在しなくて、結局は当事者たちの間のギブアンドテイクのバランスでしかないのだろう。

散々ちゃんと人を好きになれている自信がないと思っていた自分がこれだけ見返りなど関係なく相手を思いやれるようになっているのだから人生何が起こるか分からない。あまり世話焼きお節介婆のようにならない範囲で、ことあるごとに彼の腹をさすって過ごそう。