自分の外側の殻を内側から破ること

脱皮だ。これは脱皮。何も怖いことではない。
そんな風に自分に言い聞かせながら、はてなブログの名前をペンネームから本名に変えた。

名前というのは不思議なもので、私は自分の名前がずっと何だか他人事のように思えて、未だに自分で自分の名を名乗ることにほんの僅かな抵抗がある。ある、のだけれども、ここ半年くらいは本名で文章を発表する機会があって、Twitterもnoteも本名での運用をしている。

私にとってこのブログは、そういうパブリックな自分から少し距離を取った心の内側のものだったし、ただ思うことを書いておきたいだけの場だったから、ペンネームのままでいいやと放置していたのだ。

はっきり言って、私は私のきちんとした名前で世に出たいとか、もっと多くの人に読んで欲しいとか、そういう気持ちがたくさんある訳ではない。あえて「全く」という表現を避けたのは、私の中にもやはりそうした自己顕示欲だとか承認欲求みたいなものは当然あるのだけれど、それを表に出すことはかっこ悪いことだと思ってしまう癖があるからだ(結局こうして書いてあるので、あんまり意味がないのだけれど)。

だから、このブログの書き手の名前を本名に変えたことも、あまり意味はない。強いて言うなら、他の場所と名前が違っているのが何となく気持ち悪かったことと、もしTwitterなどからこのブログを見に来てくれた人が1人でもいたとして、「いや星野(ペンネーム)って誰?」となるのは何だかな、と思ったからだ。

 

そんな訳で、こうして久しぶりにブログを書いていて、改めて「名前というものは不思議だなあ」なんてぼんやりと考えるなどしている。名前って、社会生活においてどこまでも記号的な役割なのに、誰かに呼ばれると確かにそれが自分を表す文字列だと思うから不思議だ。

あまり隣人のこと(そして隣人との暮らしとのこと)を必要以上に美化することはしたくはないと常々思っているのだけれど、最近私の名前を一番呼んでいるのは多分間違いなく隣人で、彼に呼ばれる度に確かに「私」が呼ばれているなと思う。

少し話は逸れるが、前に付き合っていた人のことを、私は一度も名前で呼ぶことができなかった。それは若さゆえの気恥ずかしさもあったのだけれど、でも何故か、駄目だった。

不思議なことに、あだ名は平気だ。今でも私は隣人のことを5回に4回はあだ名で呼んでいる。良くないなあと思いつつ、その方がスラスラと出てきてしまうのは、私が謎の自意識をこじらせて未だにコミュニケーションにおいての羞恥心を捨てられていないからだろうか。

自分の名前がどうにもしっくり来ていないというのもあるかもしれない。考えれば考えるほど分からないのだけれど、みんな自分の名前にしっくり来ているものなのだろうか? 私はどうも駄目だ。隣人と暮らすようになって大分改善されてきたとはいえ、未だに「みづきさん」と名前で呼ばれるより、「あなた」とかの方が自分を指しているなと感じてしまう。

と、こんなことを言いつつも、面倒くさいことに、自分の好きな人たちからは名前を呼ばれたいなと思う自分もいる。厄介なことですね。私の好きな人各位、これからもたくさん私を呼んでね。

 

少し前に、大学生の時に読んでいたショーペンハウアーの『自殺について』をさっと読み直した。訳文なので正しい表現ではないかもしれないけれど、ショーペンハウアーの言葉は読みやすいというか、比喩とか言い回しの波長が自分に合う気がする(とはいえ彼の主著とか全然読めてないので全然説得力はない)。

自殺。学生の頃は自ら命を絶つということに言語化できない抵抗があって、それはあえて安っぽい言葉を借りるのであれば「生命への畏敬の念」みたいな感じだったのだけれど、ここ数年はそんなこともあまり思わなくなった。

例えば、個人のブログやエッセイ。そういう文章の中にこそ、生ぬるい感触を伴った身近な「死」がある。そういうものを少なからず読むようになって、死がその人にとっての救いになるのなら第三者はどうやったって止めることなんてできないよなあ、と思うようになった。

一方で、私は学生だった頃に比べて格段に「死にたくない」という強い意志を持つようになってきた。それは私が隣人と暮らすようになって、彼がおじいちゃんになるのを見たいなんていう昭和の歌謡曲みたいなことをナチュラルな思考として持つようになってしまったからかもしれない。けれど、「一週間後に世界は終わりますって告知があって、何の痛みもなく一瞬ですべてが終わってしまったらいいのに」と考えて電車に揺られていた頃よりも、今の方がきちんと「生きている」感じがする。

生の濃度が高まれば高まるほど、死の濃度も高くなる。正確に言うと、濃度というよりも「立体感」だろうか。「生」の輪郭が鮮やかになればなるほど、「死」もまた底知れない恐怖の陰を伴って私の精神へと入り込んでくる。

死にたくねえなあ、とそればかり考えてしまって眠れない夜があった。この間、隣人にそんな風な話をしたら、彼は自分にもあることだと言っていた。これからも、死にたくない死にたくないと怯える夜がきっとあるだろう。

今のところ、この先ずっと生きていくことよりも、肉体的(ないし精神的)な苦痛を伴う死の方が怖い。けれど、自分の死に際を自分で決めることができたなら、それは我々人間という種のもちうるひとつの選択だと、受け入れたい。

好きなことだけして、思いっきり笑って、今が一番楽しいなと思いながら一瞬ですべてを終わりにしようよ。

自由で不自由な「迷い」と生きている

「迷うことができる」という状態は、とても自由で不自由だ。
大学を卒業して、就職して2年と少し。今年で25歳になる。そういう自由さと不自由さを感じる機会は、学生だった頃に比べてうんと増えた。

 

俗に言う「社会人」と呼ばれる存在になって、学生だった頃と一番違うと感じたのは、自分で稼いだお金を自由に使うことができるということだ。学生の頃にもアルバイトはしていたけれど、1日中働いて、それが生活の中心になるというのは未知の感覚だった。

当然、自分のために自由に使うことのできるお金がポンと増えた。服や化粧品などのファッションに使うのか、本やゲームといった娯楽に使うのか、それとも堅実に貯金するのか。そういった選択の全てが自分の意志に委ねられているという状態は、自由であれど、非情に心細いものだったことを覚えている。

少し大げさな表現かもしれないけれど、私はお金の使い道にはその人の人生観が少なからず表れるものだと思っている。食べることが好きな人ならおいしいレストランでの食事にお金をたくさん費やすだろうし、旅行が好きな人なら交通費や宿泊費に使うだろう。もしその両方が好きなら、時に迷いながら、限られたお金の使い道を選択していくのだと思う。そうした小さな迷いと選択の積み重ねによって、その人の生き方が形作られていくのではないか。自分でお金を稼ぐ立場になって、そんな風に考えることが多くなった。と同時に、自分自身がが生きていく上での小さな選択をはじめて意識するようになった。

悲しいかな、私たちは「どんな風に生きていくのか」ということを考えた時に、お金のことを完全に度外視することはできない世の中に生きている(と少なくとも私は思っている)。「数年後にはこうなっていたい」という理想の未来を思い描いた時に、そのためにはこういうスキルが必要で、そのスキルを習得するために今何をしなくてはならないか、と考えていく時に、否が応でもその過程で費やさなければならない費用のことが脳裏をかすめる。そして、その過程についての熟慮の末、思い切って決断するか、やんわりと身を引くように諦めるかという話になってくるのだ。

けれど、裏を返せば、そうして「迷う」ことができるのは自分の中に僅かでも「可能性」があるからなのだと思う。何年か前にCMで「人が想像できることは、必ず人が実現できる」というジュール・ヴェルヌの言葉が流れていたけれど、それと同じで、ほんの少しでも可能性があるから人は「もしも」を想像し、そのために努力していくのだろう。そして、そこには当然金銭的な意味での可否もある程度は含まれてくる。

 

さて、私といえば。実際のところ、途方に暮れている。とどのつまり、「自分らしい生き方」が見つからずに困っているのだ。こうして文章にするといかにも陳腐で我ながら苦笑ものだが、本当にそうなのだから誤魔化せない。

冒頭にも書いたように、私は「迷うことができる」という状態はとても自由で不自由であると思っている。自分の稼いだお金を、自分の好きなように使う。そんな当たり前を、当たり前に繰り返しつつも、目の前に続いていく遥かな未来を思ってはため息をついている。

自分はどちらかというと多趣味というか気が多いタイプで、熱しやすく冷めやすい性質なので、短期間のうちに興味関心がころころと移り変わる。映画、バンドのライブ、漫画、手芸、執筆、ゲーム、コスメ、ファッション、外食……このあたりの趣味をローテーションして(当然各趣味への出費具合もころころ変わる)今に至っているのだが、どれか1つでも夢中になって極めたものがあるかというと、答えは恐らく「ノー」。急に何をやっても無意味にしか思えなくなる時がきて、そのうちまた次の趣味に……という不毛なサイクルを繰り返している。

(ちなみに、散々お金の使い道云々という話をしているものの、よくその場その場の刹那的な衝動で雑貨を買ったりするので、基本的にいつも金欠状態である。買い物をすることで何かを埋めようとしている……とまでは言わないけれど、それに近しい部分もある気がしている。「お買い物が趣味です」と胸を張って言えればいいのだが、このお買い物もある意味前述の趣味ローテーションの一環とも言えるので微妙なところだ)

そうした中で、自分が自信をもって続けていける趣味(生活の楽しみ)や、それの積み重ねによって訪れる未来について想像ができなくて落ち込む日が多々ある。そんな風に難しく考えなくても、と思われるかもしれないが、私はとにかく今の自分がひどく宙ぶらりんな存在に思えて仕方がないのだ。

 

今年の3月に縁あって実家を出て人と一緒に暮らすようになって、その思いはますます加速していっているように思う。相手が何かひとつのことに夢中になりその趣味への投資を惜しまないでいる姿を見ると、その人が楽しそうに過ごしていて嬉しいと思う反面、夢中になれるものがあることへの羨望や嫉妬のような感情が浮かび上がってくる。こんなことではいけないと思いつつ、日々模索しながら生きているというのが現状だ。

また、ここまではお金の話が中心になってしまったが、新卒で入社した会社を2年で辞め、転職した時にも同じような心細さを感じていた。どんな職業に就くか、その選択の自由が与えられているという事実に直面して、自分で自分の人生を形作っていくことへの漠然とした不安を覚えたのだ。

会社を辞めて、自分の人生を、生き方を、自分で決めていくということをはじめて実感した(遅いよ)。そういう迷いと決断の繰り返しで、自分という存在の中に芯のようなものができてきて、外側の輪郭もはっきりしてくるのだ。私の輪郭は(というか芯も)、まだまだふにゃふにゃのゼラチン質だけれど。

自分の望む方法でお金を稼いで、そうして得たお金を自分の好きなものへ使う。そんなシンプルな構図を、私は自由であり不自由であると感じてしまう。
どうやって働くか、何にお金を使うか。どうやって、どんな風に、生きていくか。毎日毎日、私の中で大小さまざまな迷いが生まれては消えていく。消えていく、というよりも、私自身がそれを見送っているという方が正しいかもしれない。そうして、消えていったそれらを一丁前に名残惜しく思いながら、何となく日々を浪費している。

 

24歳の今の私には、10年後はおろか、5年後、3年後の自分の未来さえ、霞の向こうのぼんやりとした影のようにしか捉えられない。どんな風に働きたいのか、どんな風にお金を使いたいのか、そして、どんな風に生きていきたいのか。「これだ!」というドストレートな答えが見つかればまた違うのかもしれないが、私の性格上、それも難しそうだ。大学生の頃にサークルの先輩に言われた「お前はどこで何をしていても『どうして私はこんなところでこんなことをやっているんだろう』と考えずにはいられない性質だと思うよ」という言葉が、今になって胸を刺す。

けれど、この自由な不自由さの中で、私は生きていかなければならない。自分の好きなものも、これにならお金も時間も惜しまないと思えるものも、私自身が見つけていかないことには、誰も教えてはくれないのだ。そして、そうやって不自由さの中で生まれた迷いを、少しずつ受け止められるようになりたい。それらしい言い訳を並べて自分の可能性を自分自身で狭めるのは、もうやめたい。

自分自身への宣言として、こうして文章に、言葉にできてよかったと思う。

他人に迷惑を掛けない範囲でいっそバブバブしていたい

先日ここに書いた「またちゃんと日記を書いていきたいな」との宣言も虚しく、早速間が空いてしまっている。
土日はなんやかやと映画を見たりして過ごしてしまい、夜もそのままなだれ込むように眠ってしまうことが多く、日記をつけることを忘れてしまうのだ。それはそれで別に特段嘆くことでもないのかもしれないが、何となくズル休みをしているような居心地の悪さもあったりして、どっちつかずだなぁと心の中で苦笑いをしている。そんな毎日。

 

GWに寂しさを紛らわせるべく無駄に没頭していた筋トレも、ちょっと気が緩むと途端に忘れる。せめてスクワットだけは……と思わないでもないのだが、今日も既に忘れたふりをしてお風呂にはいってしまった。汗をかきたくないので、今日は疲れたからと言い訳をして眠ろう。

 

何だかとても眠い。まだ二十二時だしと思って途中で見るのをやめてしまっていたROMAを流しているが、全然集中できていないのでこのまま寝てしまうのもありかもしれない。そんな日があったっていい。何といってもまだ月曜日だ。ここで無理をすると木曜日あたりに布団の中で朝日を呪ってしまう。

 

やっと少し自分の足で立てるようにリズムが戻ってきてほっとしている。今週は少し本腰を入れて書きたいと思っている文章があるので、会社の昼休みに何となく構想を考えたりしている。
読んでくれている相手に何を伝えたいか、どう思ってもらえるだろうかとアウトプットの先を想像するということをサボりがちなので(仕事以外の場面で)、久しぶりに集中してキーボードを叩けたらいいなと思っている。思うだけならタダだ。口だけ侍にならないようにしっかりと時間を確保しよう。

 

自分の中の「寂しさタンク」は無尽蔵で、情けない話だが、どれだけ目を掛けてもらって愛情を注いでもらっていても、それに気付かないばかりか、もっともっととさらに強請る。いくらもらっても、もっともっと欲しいとそればかり考えてしまい、終ぞ満たされることがない。

二十四年ちょっと生きてきてまだこんな子どもみたいなことを、と思うけれど、言い換えればまだ二十四年ちょっとでもある訳で、もう仕方ないから他人に迷惑を掛けない範囲でいっそバブバブしていたいなと思ってしまうことも多々ある。良くないんだけどね。親鳥の帰りを待って延々に口を開けてるひな鳥、あれが私です。

 

世界も世界だから二年先、三年先、五年先、十年先の自分がどうなっているかなんて全く分かったもんじゃなくて、そんなことをいちいち不安に思いながら鬱々としている時間がもったいないよなとも思う。けれど、不安というものはそういう理論構造で取り除けないから不安なのであって、もちろん個人差にもよるけれど完全に不安のない快晴のまま生きていくことはひどく困難であるように私には思えて仕方がない。やっていく気持ち。やっていく気持ちが大事です。

 

先週一週間の記憶が曖昧なのと同じように、昨日から今日に掛けての記憶も曖昧だ。こういう曖昧さがまた非常に不安を駆り立てるのだが、都度やっていく気持ちを思い出していかないといけない。

どこまでも毎日をたらたらと浪費して生きている私だけれど、今日も一日頑張った。それでいい。おやすみなさい。

 

似合わないサングラスを掛けてへらへらした

今週は何だかずっと寝起きが悪くて、今日もなかなか布団から起き上がれず、化粧もそこそこに家を出た。
最低限しか化粧をしていなかったのでマスクで出社。エレベーターで乗り合わせた社員さんに「それは何のマスク?」と訊かれ、「予防です」と答えたあとに(予防と寝坊で踏める)と思ったので「予防と寝坊です」とわざわざ言い直した。ここが五反田ディヴィジョン。

 

今日は久しぶりに一人での夜ご飯。家に帰ってからお風呂に入り、先日の残りのいかめしとかに玉を食う。両方とも素晴らしくうまい。うまいことは嬉しいし、将来年老いてご飯を自力で食べられなくなったらと思うと途端に悲しくなってしまう。それくらいうまいものを食すのが好きである。

 

毎月のささやかな楽しみであるマイリトルボックスの今月号が届いていてわくわくしながら開けた。アイライナーだったりコームだったり、今月はなかなか有用性の高いもの(ちょうど持ってなかったもの)が届いて嬉しい。

自分では普段は買わないような価格帯のマニキュアが入っていて、綺麗な色だったので早速塗った。つやつやだ。乾くのも早い。やっぱりいいものは品質がいいんだな……という学びを得た。いつもはキャンメイクです。バイト禁止の学校に通う高校生かな?

とはいえ、いわゆるプチプラコスメにも有能なものはたくさんあるので、キャンメイクだって全然アリだ。とはいえ、マニキュアについてはちょっといいものを買ってもいいかもなと思うようになった。

 

ボックスにはサングラスも入っていて、ピンクのフレームでものとしてはすごくかわいらしいのだが、いかんせんどうやっても似合いそうにない。似合いそうにないよな、と思って掛けてみたら案の定似合わなかったので心の中でへらへらした。

「サングラス 似合わない」で検索したところ、そもそも日本人は顔の作り的にどうやっても似合わないよ、みたいなことが書いてあって、それなら仕方ないなと諦めた。今後日差しの強い季節に海とか観光とか行くようなことがあったらちょっと掛けてみるかもしれない。

 

都内の方に引っ越してきて思うことは、自分は意外にも出掛けることが好きだということだ。今までは都内に出掛けるまで必ず一時間半くらい掛かっていたから、軽い気持ちで三十分以内で目的の場所に行けるというのはとても新鮮で、ここに行きたいあそこに行きたいとどんどん土日の予定が埋まっていくような気がしている。

土曜日は猫のアンティーク雑貨を集めたイベントに行って、ずっと気になっていた中野のお茶屋さんとホタテ料理の店に行く。素晴らしい日々。お金はない。ないけど、私が私として自分のことを好きでいられるように、びびびっと来たものは後悔のないように手元にお迎えしようと思う。

かなりゆるめのゼラチン質の大地に立っている

大分サボってしまっていた日記を書くことを少しずつ再開しようと思う。書くことで整理するというプロセスを経ないと精神が少しずつ少しずつ軋んでいく気がしたから。

 

GW前半は色々なところに遊びに行くなどしてとても楽しく過ごしていたのだけれど、後半はホームシックや同居人への不平不満(めちゃくちゃ身勝手なやつ)に襲われて連日泣きながら過ごすという有様で、その地点から何歩か上の方に浮上した今、非情に自己嫌悪に襲われている。

冷静に考えて、家の中にしくしくしくしく泣いているやつがいるのは鬱陶しいが過ぎるし、他者との関係性において基本的には良い方に作用しないだろう。頭では分かっている、分かっているのだが、どうにも一旦感情が奈落の底まで落ちてしまうとなかなか自力では立ち直れないのだ。24年とちょっと生きてきて、今が一番自分の精神をうまく操縦できていないようにすら思える。不甲斐ない。どこまでも不甲斐ないな。

 

今日は私が食事当番だったので明太子と大葉のパスタを作った。ネットで見つけたレシピの通りオリーブオイルを投入したらすごく主張が強くなってしまって、明太子を二腹も使ったのに微妙な仕上がりになってしまい残念。同居人はおいしいといって食べてくれたけど、それでもなお悲しかったので食後にポテチを衝動食いして精神の安定を図った。予定調和的に満たされてほっとする。その後ラムネまで食べたので、完全にお釣りがきた。こういう微々たる幸せ貯金が翌朝目覚めたときに効いてくる。

 

仕事を終えて夕食を作る前に歯医者に行ったのだけれど、病院に行くと自分の金で自分のメンテナンスをしているぞ、という気持ちになっていい。お金が掛かるので最終的に全く良くはないのだけれど、その場は満たされるというか、何やらそんな感じ。

それから、今日は朝からずっと「やっぱり眼鏡を買わないといけないな」と考えていた。眼鏡を掛けるのがあんまり好きでないのでここ何年かはコンタクトだけで生活しているのだけれども、いつものもらいなどになってコンタクトを入れられなくなるとも分からないのだしやっぱり一本は持っておかないと、と急に不安になったのだ。今度の土曜日に買いに行こう。あんまり好きじゃないアイテムだからこそ、ちょっと良いものを買いたい。なんとか諭吉が二人と半分くらいで収まってくれたら嬉しいなと思いつつ、週末を楽しみにしておこう。

 

文章を書くのが好きだ。何かを書き上げて自分の語彙の貧困具合や凡庸な出来に落ち込むこともしばしばあるけれど(というかそんなことばかりだけれど)、その人にしか書けないものがきっとあるの精神でどうにかやっていきたい。

 

自分の欲求をうまくコントロールできない日々が続いている。一人で部屋にこもっていれば何も気にならないような些細な欲求が、二人になった瞬間一気にぶわっと身体の中で電気ケトルのように瞬時に沸きあがって、相手を困らせている。

気を抜いたらゆるゆると沈み込んでしまうような、ゆるめのゼリーの上に立っているような感覚だ。足場がおぼつかないので相手の腕をつかむのだけれど、相手はきちんと適切な量のゼラチンで固められた綺麗なゼリーの大地に立っているから、縋られてもきっと重たく感じるだけだろう。

 

困らせたいわけでもないし、思い通りにしたいわけでもなくて、突き詰めていけば二人が窒息してしまう直前まで一緒にいたいだけだ(もちろんそんな悲しい日は来ないなら来ない方がいい)。

まさか自分が「嫌いにならないで」なんてみっともない台詞を口にする日がくるとは思わなかった。こんなに情けなくてやりきれない気持ちになるのなら、最初からもっと人ひとり分の距離を飛び越えないでいればよかった。そんな風に考えては、ぱちぱちとあてもなくまばたきをしている。