容れものに過ぎないと思っていたけれど

朝、やや寝坊。時間がなかったのでアイメイクを諦めて、ラインだけ引いて家を出る。

もうすっかり冬物のコートを着てもいい季節になって嬉しい。冬から春に移り変わる季節とか、秋から冬の間とか、そういう所謂「季節の変わり目」にどんな格好をしたらいいのか分からないまま、あと2日で24歳になる。

 

出勤してPCのモニタをぼんやりと眺めながら、昨日の帰りに最寄り駅の改札で前の人のスイカの残額が5円だったことを思い出した。私のも現在残額5円なので、勝手に妙な親近感を覚える。

 

お昼はお寿司屋さん。回らないやつ。と言っても8貫600円というお手頃価格でランチが食べられるリーズナブルなありがたいお店だ。

最後まで残しておいた白身魚の握りを咀嚼しながら、フロアの店員さんが「会計が合わない」と話しているのを聞く。このお店には二週間に一度くらいのペースで来るのだけれど、いつも何かしらトラブルが起きているような気がする。

大変だなあと思いながらサービスのお味噌汁をありがたく頂き、帰社。

 

午後、仕事の合間にナショナルジオグラフィックのサイトで特集記事をいくつか読む。

イタリアのシチリアには19世紀の遺体(ミイラ)をたくさん展示している教会があって、インドネシアでは故人のミイラと暮らす習わしがあるらしい。驚いた。

 

natgeo.nikkeibp.co.jp

(記事内の動画、途中生贄の動物を殴打するシーンがあるので注意ですが、ミイラへの接し方とかレアだと思うのでぜひ見て欲しい)

 

常々、私は肉体を「容れもの」と捉えている節がある。もちろん極端な心身二元論を唱えたい訳ではなくて、何と言うか、身体の方に振り回されるのは勘弁だなあという感覚。 

身体の調子が悪いと精神的にも不安定になることが多いし、私は生物学上女性なので周期的に股から血が出る。そういうままならさを煩わしいと思うので、あまり肉体を重視できないきらいがあるのだと思う。

 

肉体。からだ。ミイラになれば形が残るんだな。

心はもともと目に見えないし、言葉も文章にしなければ視覚的には認識できない。けれど、文章にしたところで、その人のその時の表情とか、全てを記録しておくことはできない。

 

それを残すのが写真であり、さらに言えば動画なんだろう。けれど、動画だって、その人の吐いた息や肌のあたたかさは残せない。

 自分のからだが形として残るのって、どんな気分なんだろうか。そこにはもう生きているときの温度や動きはなく、ただそこに在るだけ。(いるというのは少し違うのだろう)

 

残された人たちは、私だったもの、私として生きていた容れものを見て、生前の私の熱や、言葉や、表情を思い出すのだろうか。

それは何だかとても不思議に思えるけれど、「特定の生物の死」という概念そのものを視覚的にこの世に残す唯一の方法なのかもしれない。

 

そんなことを考えながら、小腹が空いたのでポテチを食べた。オフィスで食べるおやつってどうしてあんなに美味しいんだろう。