家族の呪いを薄めるための生き方を覚える

前回に引き続き、家族の話。
私の半生とか家族の話とか本当にどうでも良いと思うんですけど、私自身こうして言葉にすることで救われている部分も確かにあるので、このブログは書くことで私が今まで抱えてきた様々な生きづらさや呪いを篩っていく場所なのかもしれない。

 

私は父親の呪いに縛られている。
様々な例外を除いた場合、子どもにとって最も身近な男性は父親であることが多い。私の場合その父親が正直なところアレだったので、「男性=父のような人間」という非常に不毛な刷り込みが発生している。

 

父がどんな人間かを逐一書くのはあまり労力に見合わないというか、正直あまり事細かに思い出したくはないので割愛させて頂くが、まあ多分世間一般の「優しいお父さん」とは少し違うのではないかと思う。

物理的な暴力はなかったが、前回書いたように私は幼いころから常に「ちゃんとしなきゃいけない」と言われ続けてきたし、それはかつてほど口うるさく言われなくなった今でも根本的な部分では変わっていないような気がする。

そんな調子なので、私の脳内には「ほとんどの男性は父親のようだ」というあまりにも大雑把な強迫観念のようなものが渦巻いていて、それもあって男性と深く関わることを潜在意識のレベルで避けていたのかもしれない。
別に男性が苦手ということはなく。むしろ友達としてなら女性よりも話しやすいと感じる場面も多いのだが、一度性的な意味での好意を向けられてしまうと駄目だった。

 

両親のようなケースしか知らない私は、男女とは往々にしてこうなってしまうものだと思い込んでいた。
学生時代に付き合っていた人にも父との関係性については伝えていて、度々「俺は父親とは違うよ」と言われていた。でも今なら分かる。結局私の方が最後までそのフィルターを取り去ることができていなかったのだ。だって私は男女って父と母のような関係性のものだと思っていたから。

だから、私は彼と一緒にいる時の自分をいつまでも好きになれなかった。彼に対してネチネチと文句を言う様はさぞ母にそっくりだっただろう。ゾッとする。

 

で、なんやかんやで大学3年生の時にその相手ともお別れして、その後2年半くらい過ごしている間に自分が導き出した結論は「自分は一人でも大丈夫だ」ということだった。
趣味もある、多くはないけど友達はいる。なーんだ全然1人でもやっていけるじゃん、と清々しい気持ちだった。

 

ありがたい縁があってまた再び人とお付き合いさせて頂いている今でも、それはあながち間違っていないと思う。
ただ、自分は自分の趣味を楽しみながら誰かと一緒にいることができるのかもしれないと気付けただけで、私は少し脱皮できたような気がしているのだ。そういう意味で、私はとても件のAさんに助けられている。(Aさんについては少し前に書いた)

ynynmsms.hatenablog.com

 

59番目のプロポーズ』でお馴染みのアルテイシアさんのコラムに、「毒親育ちはパートナーに育て直される」といった記述を見つけて膝を打った。そう、まさにその感覚なのだ。
まだパートナーなんて私が勝手に言えるような間柄ではないが、Aさんと接することで私は少しずつ自分の中の呪いを薄めていけるんじゃないかという淡い希望を抱いている。

 

以前こんなことがあった。私が父親について「父親は素の声の音量が大きくて戸棚とかドアをバタンバタンでかい音を立てて閉める、何度言っても改善されない」と愚痴ったところ、Aさんはさらりと「ああ、それはもうどうにもならないでしょうね」といった旨の相槌を打った。
ここで「肉親を悪くいうのはちょっと」「親のことは尊んで当たり前」というような反応をされていたらAさんとはそれっきりになったかもしれない。

この件で単純にすごいなと思ったのが、Aさん自身は別に家族仲が悪い訳でもなく、Aさんの妹さんなどは「お父さんよりも素敵な男性なんてそうそういない」と豪語するほどであるらしいということだ。
親子問題に限った話ではなく、こういう「自分は別にそういう境遇じゃないけど、あなたのそれはしんどいでしょうね」とただ相手のつらさを受け止めるという姿勢は簡単なようで結構難しい。

 

Aさんと接していく中で、もうひとつ気付いたことがある。それはうちの父親が私が思っていたほどそんなに大した人間じゃないということだ。

幼い私にとって、よく物を知っている(少なくともそう見えていた)父はとても博識で偉大な人物に見えた。というよりも、放っておくとすぐにマリアナ海溝ほども落ち込んでしまう自己肯定感を無理矢理アゲアゲにするためにそう思い込まざるを得なかったのかもしれない。

でも、きっと全然そんなことはないのだ。相変わらず家事はやらないし、口ばっかり偉そうだし、みみっちい愚痴ばかりこぼしているし、クレーマーだし、本当に人として何だかなと思うところばかり指折り数えられてしまう。

決して直接的に比べている訳ではないが(それは相手にも失礼なので)、素直かつシンプルに「ああこういう人もいるんだ」と思わせてくれるAさんの存在は少なくとも現在の私にとっては明確に救いになっている。

 

先日母の些細な一言で見事に私のメンがヘラり、LINEでクソ不幸アッピル長文を送り付けた時も、「今は完全にメンがヘラってますね。あんまり気にしないでいいんじゃないですか?」とフラットな意見をくれた。
私は誰かに「大丈夫」とか「気にしないでいい」と言ってもらうだけでことの内容に関わらずそれだけで安心しきってしまうやすい人間なので、こういうのは本当にありがたい話だなと常々思っている。

と同時に、頭の中ではもう一人のリスクヘッジ大好き人格が「落ち着け、相手はまだ出会って半年も経っていない人間だぞ……」とカンカンカンカンけたたましく警鐘を鳴らしている。そのアホみたいにヒステリックなアラート音を聞きながら、ああ私は本当に人を信じられなくなっているんだなと思う。

 

だからこうしてブログにAさんとのことを残すのも本当は怖い。
可能性としてお別れしましょうとなる未来がいつかやってきたとして、それは誰にも責められることではないし仕方がないことなのだが、そうなった時にこういう記事を見て「ウワ~~~こいつ人のこと軽率に信じて痛い目見てるよ!!!!」と思いたくないのだ。(未来の私も恐らく今と変わらず性根がS字フックのように曲がっているので平気でこういうことを言うだろう)

そのうちAさんの話が出てこなくなったら察してください。

 

そんなこんなで、私の当面の目標は自分の中に根深く巣食っている父母に関する呪いからゆっくりと自分自身を解き放っていくことだ。20年あまりの間に溜まりに溜まった怨念がすぐに霧散してくれるとは思っていないので、本当に少しずつでいいから今よりも少し楽に生きられるようになりたい。

そして、この先どんな結果になろうとも、相手のことを理不尽かつ一方的に恨むようなことはしたくないなとしみじみ思った。