ふわふわだった彼女のことを思い出す

オフィスでは四六時中PCモニタの前に張り付いているので、気を抜くとすぐに2018年ブログの旅に出てしまう。

日記系のブログは良い。誰かの暮らしをお裾分けしてもらっているような感覚が楽しいし、何よりもそこにあるのはどうしようもないほどの「個」なので、大手新聞社やメディアが掲載しているネットニュースとはまた違った物語性がある。

はてなブログのトップには、日ごとにおすすめ記事のようなものが掲載されていて、そこを覗くのも好きだ。
先日、そこでくたびれはてこさんのブログに辿り着いた。

kutabirehateko.hateblo.jp


読んだ。私はこのエントリに対して語る言葉を持ち合わせていないな、と思った。何て言ったらいいか分からない、というよりも、本当に私が言えることはないなという感覚だ。

 

私自身は一般的な「死」という現象についてあまり悲観的な考えを持ち合わせていないし、いつか自分に訪れるそれについても特に嘆こうとは思わない。

何と言うか、仕方がないよなあと思うのだ。生きているものの身体はいつか死ぬ。それはどうしようもないことで、生きていくにあたってはその肉体の終わりに向かってどれだけ自分のこと(+αで他者)を愛せるかが重要になってくると思っている。(この辺りの私の思想は結構極端なのかもしれない)

こう言うとすごく薄情な人間と思われるかもしれないが、私は多分、今現在癌で闘病している祖父が亡くなった時、多分そんなに泣けないと思う。その時のことを想像すると、もちろんすごく悲しい。けれど、祖父は私の日々の生活に密接に関わっている存在ではなかった。祖父は遠方に暮らしているので、1年のうちに1度会うか会わないか、そういう関係だった。

 

一方、昨年の暮れに長年一緒に暮らしてきたお猫様がお隠れになった時は馬鹿みたいに泣いた。悲しかった。こうやってその時のことを思い出しながらキーボードを叩いている時にも、涙が滲んでいる。

彼女は間違いなく私の生活に欠かせない存在であり、姉妹のように育ってきたかけがえのない存在だった。そんな彼女にもう触れられないという現実は、私をひどく打ちのめした。

けれど、それにしたって、仕方がないことなのだ。いつかは来ると、分かりすぎていた別れだった。

昨年のこの出来事を経て、私は「いつも傍にいてくれた存在」を失うことについて知った。自分の中の一部がぽろっと抜け落ちてしまったような、そんな感覚を初めて味わった。その存在が自分と近ければ近いほど、一緒に暮らしているからこそ、つらいのだ。

けれど、私は平気な顔で生きている。彼女がお隠れになった直後でも、ご飯が喉を通らないなんてことはなかった。しっかり眠って、起きて、会社に行った。どうしようもなく生活は続いた。

今だって、たまにこうして思い出して涙を流すことはあっても、四六時中その喪失感で何も手に着かないなんてことはない。生活は続くし、その中で私は私自身をどうにかしていかなきゃいけないからだ。

 

そうやって少しずつ彼女のいない生活に慣れていくことは、決して不自然なことでも非人道的なことでもないし、むしろ当たり前のことなんだと思う。
結局のところ、彼女と過ごした時間や楽しかったという気持ちをたまに思い出しながら、私の人生はどうしようもなく続いていき、いつか終わるのだろう。

近しい存在を失うのはつらく、とても悲しいことだけれど、その時はいずれ絶対にやってくる。
だからこそ、そういう経験をした人に真の意味で他者が共感できることなんてないし、軽はずみな言葉を掛ける必要もない。
ただ「そうだったんだ」と受け止めるほかないのだと思う。