コーヒーの味を思い出すことはしない

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 最寄駅までの道にある、昔ながらの佇まいをしたやや小汚い喫茶店がずっと気になっていた。踏切沿いにあるその店は、ほんの三、四席のこじんまりとしたカウンターと、四角い白いテーブルが五つほど配置されているだけのシンプルな造りで、いつも地元の人間であろう初老の男性や大学生の一人客が疎らに席を埋めている。

 とりわけ僕の興味を引いたのは、カウンターに立つマスターの存在だった。地域密着型の喫茶店のマスターと言えば、歳の頃が六十、七十くらいの男性というのが定番のように思っていた僕には、随分と年若く見えるその店のマスターの正体が不思議でならなかったのだ。

 とはいえ、僕はその店に一度も入ったことはなかった。道路側は全てガラス張りになっているから、ほぼ毎日横目で見ているうちに、何となくその店のことを覚えてしまったというだけの話だ。ガラス越しにも肌に染み込んでくるような「一見さんお断り」な雰囲気に足を踏み込む勇気がなくて、いつも錆びたドアノブに手を掛けられずにいた。

 

 ある日、僕は仕事でこっぴどいヘマをした。上司はそんなに怒っていないとか、取引先は気にしていないとか、そういうことは問題ではない。単純に、僕の安っぽいプライドが、僕自身を許せなかった。そして、その何の役にも立ちやしないと思われたちんけな自意識は、いつも通りの帰り道を辿って自宅のアパートへ向かうことを阻んでいた。

 僕は例の喫茶店のドアを開けた。カラン、と取ってつけたようなベルの音が鳴る。マスターと思しき年若い男性が、寒い日に食べるビーフシチューの湯気のような声で「いらっしゃいませ」とだけ言って僕を迎えた。

 僕は少し逡巡した後、おずおずとそのマスターの目の前のカウンター席に腰を下ろした。誰でも良いから、話を聞いてもらいたい気分だった。

「初めてのお客様ですね?」
「あの、はい。ずっと、気になってはいたんですけど」
「うち、ちょっと入りにくいですよね。僕も、自分がそちら側ならまず入らないと思います」

 マスターは緩く微笑みながらそう言って、僕の手元のメニューを指差しながら「初めての方には、ブレンドをおすすめしています」と言って僕の目を見た。その提案に頷いて、僕はそっと店内を見回してみたが、もういい時間だからだろうか、いつも歩きながら見ていた常連らしいロマンスグレーの男性が一人新聞を広げているだけだった。

「お待たせしました」

 程なくして、芳ばしい香りを纏った品のいいカップが滑るように僕の前に現れた。僕は律儀に「いただきます」と挨拶をして、カップの縁に唇をつけた。

 正直に言うと、その日飲んだコーヒーの味はよく覚えていない。というのも、僕の意識はコーヒーよりも、とりとめのない僕の話を優しく頷きながら聞いてくれたカウンター越しの笑顔の方にばかり向いていたからだ。

 僕がどうしようもなくちっぽけな自分のことを自嘲している間に、彼は彼自身のことを少しずつ教えてくれた。店を切り盛りしていた父親が倒れて、急遽マスターを継ぐことになったこと。大学を出てから、わざわざコーヒーの道を極めるために世界各地に旅に出ていたこと。彼の話す物語は、平々凡々な人生しか送ってこなかった僕にとって、きらきらとした宝物のように思えたのだった。

 

 その夜から、僕は度々その店を訪れるようになった。その内にマスターとは学年が二つしか違わないことが分かって、途中から僕の方はすっかり敬語が取れてしまっていたくらいだ。穏やかで気さくなマスターに、あたたかいコーヒー。そのどちらもが、営業の仕事でへとへとになった体に欠かせないものとなるのにさほど時間は掛からなかったように思う。

 一週間のうち金曜日だけだったのが、週二日になって。少し経った頃には、休日の昼間にも遊びに行くようになった。いつしか僕の肺は窓ガラスの内側の空気にすっかり慣れていて、他の常連客とも軽い挨拶や世間話を交わすまでになっていた。歳が近いせいもあって、件のマスターとも軽口を叩き合うような仲になっていた。僕の方が彼より二つ上だけれど、彼は妙に大人びているところがあるから、良い意味で年齢を感じさせない。それに、友達とも仕事仲間とも違う、ほかではちょっと味わえないような距離感で、彼は僕の居心地を良くしてくれる。僕は実家の隣に住んでいた幼馴染と話すときのような気安さで彼の名を呼び、彼もまた、親しい仲間とヒッチハイクをするときのような仕草で僕をもてなしたのだった。

 そうして半年くらい過ぎた頃だっただろうか。会社の飲み会で終電ぎりぎりの時間に帰った夜があった。その日は華の金曜日で、駅前は僕と同じようにどこかで飲んできたのであろう酔っ払いのサラリーマンたちでごった返していた。その喧噪から抜け出して、線路沿いの道を酔いを醒ましながら歩いていると、件の店からほんのりと灯りが漏れているのを見つけた。腕時計を確認すると、案の定、もう深夜一時を回っている。いつもは二十二時で店じまいをしていたので不思議に思って、僕は久しぶりに窓ガラス越しに店の中の様子を覗き見た。

 カウンターを照らすように天井から吊るされた曇りガラスのランプが、ぼんやりと鈍く光っている。そして、そのランプの光が、彼ともう一人――僕の知らない女性の横顔を暗闇の中に浮かび上がらせていた。僕は何だか見てはいけないものを見てしまったような気がして、すっと視線を前に戻し、そこから一度も振り返らずに家に帰った。ほの暗い店の灯りの下で、見つめ合うでもなく佇んでいた二人の姿と、怒っているような、泣いているような、少しでも風が吹いたら壊れてしまいそうな顔していた彼の顔が、ずっと頭の隅にかすんでいた。

 

 仕事が忙しくなったせいもあって、再び店を訪れたのは、例の夜から一週間と少し経った後だった。 いつもならどんなに繁忙期でも三日に一度のペースは守っていたのだけれど、あの夜の出来事がどうしてか心のどこかに引っかかっていて、何となく足が遠のいていたのだった。

「こんばんは、お久しぶりです。仕事、忙しかったんですか?」

 暫くぶりに開けた店のドアは、少しだけ重たかったような気がする。それでも、僕を迎えてくれるマスターの優しい声色は、今までと何一つ変わっていなかった。その日は珍しく僕の他には客がいなくて、自分でも変だなと思いつつ、少しだけそわそわしたことを覚えている。

 いつものように何気ない話をいくつか並べた後、不意に彼が口を開いた。

「あの日、店の前を通ったでしょ? 変なところを見せちゃいましたね」

 僕はどきりとして、無様にもそれを隠すことができずに、彼の顔をじっと見つめてしまった。彼は「やっぱり」と呟いて、それから「もしかして、暫く来てくれなかったのもそのせいだったり」と少し困ったような笑顔を見せた。僕はとっさに「いや、そんなことは」と言い掛けて、そして黙った。本当にそんなことはないだろうかと、その答えが分からなかったからだ。それきり押し黙ってしまった僕の前にいつものブレンドコーヒーをそっと差し出した彼は、軒先のつららの先から落ちる雫のように、静かにゆったりと言葉を漏らした。

「彼女、少し前までよくうちに来てくれてたんです。まだ社会人になったばっかりでそんなにお金だってないだろうに、本当に、週に何度も。そして、僕は彼女が僕に好意を向けてくれていることに気付いていた。だから、彼女に『良かったら付き合って欲しい』と言われた時も、ああやっぱり、と思ったんです」
「その時、彼女には何て?」
「……『喫茶店は、他にもありますよ』って。最低ですよね」

 僕に半分背を向けて、彼はかわいた布巾をカップに滑らせている。僕は相槌を打ちながら、彼の長い指が時折ぎゅっと布地に皺を作るのを見ていた。

「でも、僕には誰かをそんな風に強く思う気持ちが分からないんです。誰かと一緒にいて楽しいとか、この人といるのは居心地がいいとか、そういうことは分かるつもりです。けれど、特定の誰かに対して自分の欲を押し付けるような、そんな強い感情はあまり持ったことがなくて」
「うん」
「そしたら、あの日彼女が『やっぱり諦めきれない』ってもう一度訪ねてきて。でも、僕は今あなたに話したようなことをつらつらと並べるだけ並べて、彼女が泣いて出ていくまでをずっと他人事みたいに見てた」

 彼は手にしていたカップを背後の棚へことりと戻すと、眉を下げて自嘲的に笑った。 

 彼の言おうとしていることは、僕にも何となく分かる気がした。彼は気が利いて、よく笑い、人の話を聞くのが上手い。だからきっと僕なんかよりもたくさんの人と関係を持ってきたのだろうと思う。けれど、彼はきっと、その度に自分の中の小さな違和感が育っていくのを感じていたのだろう。彼は利発で、聡明で――だからこそ、他人に執着しなくても、自分で自分を輝かせることのできる人間なのだ。

 途端、僕は悲しくなった。彼のような素晴らしい人間が、今とても寂しそうな顔をしていること、そしてそれを癒すことができない自分に。

 僕は、別に彼に性愛的な意味での好意を持っている訳ではないと思う。けれども、お互いがお互いの息のしやすいように居場所をつくってきたこの数ヶ月間は、間違いなく僕の人生において他の何にも代え難い大切なものになっていた。そんな彼に、僕は今、何をしてあげられることができるだろうか。僕は半ば見切り発車で、小さな子どもがしゃぼん玉を次から次へと飛ばす時みたいに、後先考えずに口を開いていた。

「僕が、君の味方でいるよ。例え彼女がまた戻ってきて、君に詰め寄ったとしても、僕は君の言うことを否定しない。それから……君が『それでいい』と、そう思ってくれたら嬉しい」

 今まで生きてきた二十七年間の人生の中で、一番クサい台詞を言っている自覚はあった。そして、僕は自分の口から「味方」という言葉がごく自然に滑り落ちたことに、内心少し驚いてもいた。あくまで個人的な考えだけれど、「味方」という言葉は、「友達」とか「恋愛」よりも時間のにおいのする言葉だと思う。手を繋いでハグをしたら友達になれると言う人や、本気の一目惚れをする人だっている。けれども、誰かの味方になるには、その人のこれまでと、それからのことをしっかりと考えていなければいけない。その人のことをよく知っているからこそ味方でいたいと思うし、やはり同じように、その人にこの先降りかかる災いのことを思うからこそ味方でいたいと思うんじゃないかと、そんな風に僕は思う。とはいえ、僕も彼と知り合ったのはつい数ヶ月前の話なので、偉そうなことは言えないのだけれど。
 カウンター越しに、彼がふっと笑ったのが聞こえた。僕は気恥ずかしさから逸らしてしまった視線を再び彼の方へ戻した。

「ありがとうございます。味方って、すごく良い言葉ですね。何だか一気に心強い」
「何か、偉そうなこと言ってごめん。でも、ちょっと元気になったみたいで良かった」

 最後の方はまた俯きながら、僕はカップの縁に唇をつけた。せっかく淹れたてだったコーヒーは人肌くらいにまでぬるくなってしまっていたけど、僕はそんなことよりも、彼の笑顔が戻ったことの方に気を取られていた。ここに来るとつい、いつもいつもコーヒーを味わうことを忘れてしまっているような気がする。

 空になったカップの水気がすっかりなくなってしまったので、そろそろ帰ろうかと席を立った時、彼が耳打ちするようにそっと言った。

「僕らの喫茶店はここだけだって、そう思っていてもいいですか?」

 いつも余裕を崩さない彼が珍しく子犬のような表情を見せたのがおかしくて、僕は「また来ます」と浮ついた手つきで彼に小銭を渡した。
 二十七歳、恋人なし。けれども、僕は今日この時から、そんな己の境遇を嘆くことはしないだろうと思う。彼との間に生まれた、この他の何にも似ていない繋がりは、きっとこれからも僕を支えてくれるだろう。そして、この先僕ら二人がどんな道を選んでも、それはきっと変わらないだろうと思うからだ。