本当の私なんてどこにもいないのかもしれないけど、それでも良いと思えるようになれたら

ふと考えてみると、20歳を迎えてからは「この人と一緒にいる時の自分はいい感じかもしれないな」と思える相手としか積極的な関わりを持たないようになっている。無意識のうちにそうやって人付き合いを選り好みしているから、友達とか大事な人は多い方ではない。けれど、今でも一緒にご飯に行ったり何でもないような時間を過ごす人たちのことを、私は自分なりにとても大切にしているつもりだし(大切にしている、と言い切れないのはご愛敬)、これからだってそうしていきたいと思っている。

 

「若いんだからもっと積極的に色んな人とコミュニケーション取りなよ」
会社の人、父親、彼らが善意からそう言ってくれているのは分かっている。もちろんそうやって自分から色々な人と能動的に関わることで得られることだってある。それだって分かっている。現に私は気が向いたからという理由で何となく始めたマッチングアプリで出会った人とお付き合いさせて頂くに至った訳で、その理論を頭ごなしに否定する気はない。

けれど、私は「不特定多数の誰かと話している時の自分」のことをいつまで経っても好きになれない。愛想笑いだって、全然得意な方ではない。

それでも私が接客業をそれなりに好きだと感じるのは、勤務時間中の自分が素の自分の身体と思考を「店員」の皮で綺麗にラッピングした存在だからであって、そこに多少の演技が介入しているからだ。演技をしている自分、演技の結果出来上がる自分は結構好きだ。疲れはしても、仕事だと割り切った上でなりたい自分になっているから。

 

ただ、私生活ではこうはいかない。私は自分より目上ではない相手にうまく話をするのが本当に苦手だし、他愛ない話で談笑したり、そういうのが本当にできない。厳密に言うと、3人以上の場で自分の立ち位置をポジショニングすることができないし、どういった言語で喋ればいいのかがとんと分からなくなるという感じ。相手に対してどんな自分を用意すればいいのかが分からないのだ。ちなみに目上の人が例外なのは、敬語と一線を引いた態度で切り抜けることができるからだ。

特に親しくはない誰かと話している時、私は常に「誰かと話している自分」を俯瞰的に見ている。デカルト。自分を見ている自分、その自分を見ている自分、さらに……といった具合にどんどん自分の視点が増えていって、どういう話し方、どういう態度の人間が本当の自分なのか分からなくなる。
もちろん、他者が100人いたら100人の中にそれぞれの私がいて、そのどれもがその人にとっての「本当の私」なんだと思う。けれど、私は一体どの自分を選べばいいと言うのだろう。

 

ここで話は冒頭に戻る。私はいつも人と話す時、「その人といる時の自分を好きでいられるかどうか」を念頭に置いてしまう。家族はもう一つの呪いのようなもので、生まれてくる家庭や環境は選べないからこの限りではないところもあるのだけれど、私はやっぱり父と一緒にいる自分は好きではない。最近は母と一緒にいる時の自分も愛せるかと言われると分からない。私は「他者に対して遠慮がなく口が悪い自分」が好きではないのだけれど、両親の前だと(特に父の前だと)こうした傾向が加速するからだ。

今でも定期的にご飯を食べている友達や、大学時代の友達など、一緒にいて楽しい人達について考えてみる。彼らについて一貫しているのは、やはり私がどれだけ彼らと一緒にいる時の自分を許容できているかという部分であるように思う。それぞれの前で、私はきっと同じではない。特定の相手の前でしかしない話し方をする時もあれば、特定の人の前でしか見せない顔をしている時だってあるだろう。そして、これはきっと少しもおかしなことではなくて、他の人達は自然と特にそれを苦痛に感じることなく行っているのかもしれない。

 

でも、私は駄目だった。少なくともつい最近までは。自己を統一しなくてはならないという強迫観念がどうやっても消えてくれなかった。「○○さんの前の自分」と「■■さんの前の自分」が食い違うことが、何だか非常に恐ろしく思えて仕方がなかったのだ。これがどうしてなのかは自分でも分からない。というか、自分についてなんて分からないことばかりで、きっと分かっていることの方が少ない。

でも、ここ2、3ヶ月の間に、俄かにさっと視界が開けたような、そんな感覚があった。私は色々な自分のままで良いのかもしれない、と漠然と思った。この変化が訪れた理由も、はっきりとは分からない。

思い当る点があるとすれば、短期間の間にマッチングアプリで初対面の人間とたくさん会話をしたことくらいだろうか。冒頭で「人付き合いを制限しがち」という話をしたけれど、皮肉なことに、「初対面の人間に自分から会う」という真逆の方法による荒療治で私は少しだけ生きやすくなったのだった。

 

色々な人がいた。何だか噛み合わず会話が続かない人、楽しく話せるけど根本的なところでこの人といても安らげないなと感じる人、二人の間の沈黙を苦痛だと感じてしまう人。

この世には自分と波長の合う人もいれば合わない人もいて、単純な数で見たら恐らく圧倒的に後者の方が多い。そんな当たり前の話を、私はようやく飲み下すことができたのかもしれない。合わないと感じた相手をさっと切り捨ててきた訳なので、自分の周りにいてくれる人たちは波長の合う人たちばかりになっていて、そんな当たり前でどうしようもない事実を無意識に遠ざけていたのだろうと思う。

 

どんな形であれ、自分から会いたいと思う相手がいるというのは嬉しいことだ。素晴らしいことだ。そう思うのなら、好きな人達と一緒にいる時の自分くらい許してみてもいいのかもしれない。そして、彼らと接している時の自分のことを好きになりたいと改めて思った。