食って寝れば忘れる装置です

枕元のスマホからFoZZtoneの明くる朝が爆音で流れてきて起きる。これを毎日やっている。

明くる朝は絶対に鼓膜ゼロ距離で爆音で聴くタイプの曲ではないのだが、いかんせん私はどんな曲を掛けようとも音量をある程度爆上げしないと起きられない。それくらい朝が弱い。血圧が低いのだ。お昼ごろに測っても常に上が100いかない。だから私が起きられないのは怠慢ではなく血圧のせいです。

粛々と支度をして家を出る。ここ数年は父親が朝早くに起きて自室で仕事をしているせいで私が起きた頃には既に家中煙草臭い。
起きて自分の部屋のドアを開け、1歩廊下に出た途端に全力で襲い掛かってくる安い煙草の悪臭。この洗礼を受けるたび(ほぼ毎朝)、ああ絶対に家を出ないと駄目だな、とげんなりする。

父は声が大きい人で、毎朝その大きい声で「おはよう」と声を掛けられることすら明確に苦痛なのだけれど、これってもうどっちが悪いとかじゃないよなあと思う。私にとっては向こうのそういう態度が本当にダメダメのダメだけれど、向こうにとってはそれが自然な在りような訳だし、単純に相性が悪いんだと思う。諦めるしかない。

 

こういった要因もあり、まだ知り合って半年も経っていないにもかかわらず完全に同棲しかないなという気持ちになっている。幸い向こうもそのために色々と準備をしてくれていて(具体的に言うと家具を新調したりとかちゃんとその意思を言葉で伝えてくれたりとか)、大変ありがたいことだなと日々思っている。

ちょっとスピード感がありすぎでは? と思わないこともないのだが、自分の精神衛生的には乗っかっておいた方が得策な気がするので、流れに身を任せるつもりだ。


お昼は同期と後輩とパスタ。日替わり、牛すじとにんにくの芽のペペロンチーノ。
牛すじがちょっと油っぽくてキツかったので申し訳ないと思いつつ食べ切れなかった。でもうまい。特ににんにくの芽。この間五反田の焼き鳥屋さんで百合の芽を食べた時にも思ったけど、植物の芽って何であんなにおいしいんだろう……。体感グレートネイチャーすぎる。地球は青かった

アイスレモンティーにガムシロップを2ついれたけど、何だか色々全然大丈夫だなと思った。うまい。甘いのが好きな子供舌なのでアイスティーは気分によってすこぶる甘くしてしまう。
目先の甘さで「今」自分を満足させたいという欲が強すぎるので、常に血糖値とかそういうことは気にしないで生きている。別に刹那主義の人間ではないが、食に関してはわりとそうかもしれない。

色々な仕事の話をした。私はあと3日ほど出勤したらでいなくなる立場の人間なので好き勝手に言えるのがいい。嫌になったら転職した方がいいよ、という話を5万回くらいしておいた。

私は去年の10月~12月くらいの間、本当に自分のことを好きになれなくて大層苦しかったので、人には「ヤバいと思ったらすぐに逃げた方がいい」と繰り返し伝えてしまう。絶対に精神をおかしくする前に抜け出した方がいい。


前の晩に連絡が返ってこなかったのは、夜中の3時まで飲んでいたかららしい。大変だなあと思う。

能力がどうこうとかでなく性質の問題として私はどうやっても大きな会社で人並みに勤めることはできなさそうなので、それをきっちりこなしているところが本当にすごいよなあと常々思っている。別にそれ自体が人間としてえらいとか大手勤めでバリバリ働いているのがかっこいいとかそういう次元の話でなくて、もっと身近な、「自分にできないことをできてすごい」という感覚に近い。

正直、ことお金の話になると色々と思うところはあって、文章にしろ絵にしろ何かを「作る」側の報酬が他と比べて低い場合が多いことについては本当に何だかなと思うのだけど、そういうスケールの話を自分たちの側にまでもってきて必要以上につらくなるのも馬鹿らしい。
私は小狡い人間なので、向こうが自分よりもたくさんたくさん収入を得ていて自分もめちゃくちゃ良くしてもらっているのでラッキーくらいの気持ちでいると安定する。

学生の頃の私だったら、「こんな在り方は資本主義の犬でしかない」と噛みついていたかもしれない(犬だけに)。実際、当時付き合っていた相手にはそれに近しい感情を覚えていた。けれど、そんな気持ちは結局、自分がそういう風にはいられないことから来るどうしようもなく幼稚な嫉妬でしかなかった。


こうやって過去のことを思い返していると、亀の歩みでも色々な事を受け止められるようになっているなと実感する。受け止めるというよりはむしろ諦めに近いかもしれない。

学生だった頃に比べて私は色々なことを諦めるようになったけれど、ただ、別にそれを悪いことだとは思っていない。あの頃に比べて、格段に生きやすくなったから。

するりと諦めるとそれまで気になっていた色々なことが良い意味でどうでもよくなるし、いよいよ他者に対する興味がなくなってきて、自分と人とを比べて惨めな気持ちになることも減った。何だかんだ言ったところでどうせ100年後には全員死ぬ。これが真理です。

とはいえ、そんな中でも諦めたくない部分というのはやっぱり絶対にあって、そこを失くしてはいけないよなと思う。それを突き詰めていった結果、残ったうちのひとつが「何かを伝えたい、表現したい」という欲求だった。だからさっき書いたような表現する側の報酬云々の話は仕方ないの一言で済ませられる域には達していなくて、別に四六時中そのことについて考えている訳ではないけど、小さな棘として残り続けてはいる。

ただ、まあそれが何だという話でもある。そういう面倒な話は、2人で並んで商店街の安くてうまいお惣菜を食べれば概ね忘れてしまうものだ。もやっとした瞬間があったとしても、大抵は寝れば忘れる。何かもうそれでいいや、と思うので今のところは安泰です。