【11/11~11/30】Netflixで見た映画まとめ

11月30日、昼休みは親子丼を食べるべくなか卯へ向かった。
道中には風俗街があり、そこを抜けたあたりに少し大きめの建物が建っている。どうやらカラオケ店になるらしく、絶賛改装中だったが、もとのテナントが何だったか全く思い出せない。

結構な頻度で通っている道にもかかわらず意外と思い出せないものなんだなあ、と自分のぼんやり具合に少し頭が痛くなったが、親子丼が美味しかったので食べ終える頃にはそんなことは綺麗さっぱり忘れた。

 

さて、映画の話だ。
11月下半期はばたばたしていたこともあり、あまり多くを見ることはできなかった。けれど、『シング・ストリート』に出会えたのでもう気持ち的には何でもいい。この良さの前には本数の少なさなど些事である。

 

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世界にひとつのプレイブック
★3.3

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統合失調症の目つきのヤバめな主人公が自分よりもさらにクレイジーな女性に出会って恋をする話。
何だろう、全体的にすごく上手くまとまっているんだけど、主人公およびその父の言動に対して疑問を持つシーンも多く、のめり込めなかった。

とは言え「主人公が自分の性格や置かれている立場を少しずつ理解して立ち直っていく」というシナリオは単純に見ていて気持ちがいいし、何よりヒロインが!かわいい!!!! 評価の★の0.3くらいはヒロインのかわいさで成り立っている。

それを抜くと「可もなく不可もなく」というのが正直な感想です。特におすすめという訳でもない。ダンスシーンは良かったけれども。


ムーンライズ・キングダム
★4.5

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学生時代に映画好きの先輩に教えてもらった大好きな映画。小さな島のボーイスカウトを舞台に繰り広げられる、少年少女の逃避行のお話。ちゃんと見るのは2回目。

まず全体的に登場する衣装、小物、建物など全ての要素が暴力的なまでに鮮やかでかわいい。ミニチュアの街で遊んでいるみたいな感覚。

もちろんシナリオも最高なのだけれども、90分の間視覚的にずっと楽しめるという点で絵を描いたりする人にはすごく勧めたい。

周りに理解されないという同じ燻りを抱えた主人公2人のやりとりやボーイスカウトのメンバーとの会話は痛快だし、釣り針で耳にピアスをあけるシーンは痛いけど美しい。

私はこういう少年少女が世界に2人だけしかいないみたいな空気感の中で語らったりする映画が大好きなので、私と同じでそういうのが大好きな人は絶対に見てください。これについては多分変な前情報を入れる前に見た方が早い。


ミスター・ノーバディ
★3.7

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人生におけるありとあらゆる選択のうちのすべてを体験したニモという青年の話……という紹介の仕方は決して正しくないかもしれないが、概ねそんな感じ。

離婚した両親のうち母と父のどちらについていくか、幼馴染の女の子3人のうちの誰と結婚するか、といった選択のすべてのルートが映像化され、それらのシーンが絶妙な画面転換でくるくると入れ替わっていく。

「結局どれが本当のルートなのか」「全部ニモの書いたフィクションではないか」などなど疑問は尽きないが、シナリオの難解さは別として、映像は素晴らしかった。
実際にミニチュアのセットを使用して撮影されたシーンがあったりして視覚的にも飽きないし、主人公が最も愛した女性・アンナとのシーンは非常に美しかった。

そしてなんといってもニモの少年期がほんと~~~~~~に最高!!!!
父親についていくと幸の薄い少年ルート、母親についていくと幼馴染のアンナとの甘い日々を過ごすルートに突入するのだけれど、その演じ分けが素晴らしかった。アンナと追いかけっこをしてけらけら笑うニモは健やかで自信に溢れた少年って感じなんだけど、離婚によって心身ともに病んでしまった父親の介護をするルートのニモは本当に薄幸の美少年の危うさがすごいんだよな……。
ぜひ美少年好きとSF好きには見てほしい。いかんせん長いけど……。

 

シング・ストリート 未来へのうた
★4.5

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いや、さ、最高か……??????
ざっくり説明すると少年が好きな女の子のためにバンドを組んで成長するっていう話なんだけれども、とにかく作中で使用されてる音楽のすべてが良いし、コメディとしてくすっと笑えるシーンもたくさんあって満足度が非常に高い。

主人公の組むバンド「シング・ストリート」の曲は本当に全部良くて、ライブシーンはとにかくリズムに乗らずにはいられない。チャキチャキのオルタナギターロック!!
主人公の思い人・ラフィーナはハッとするほど綺麗だし、バンドのギタリスト・エイモンのキャラが最高……。あのアンニュイな雰囲気と低くて渋い声でエイモン好きにならんやつおる?????

最高すぎて見終わったあとすぐにサントラをダウンロードしたし、1週間くらい経ってからまたすぐにもう1回見た。2回目でも全然飽きなかったし、サントラを聞いてから見るとまた違った楽しみ方ができる。とにかく最高なのでぜひ。

同監督作品の『はじまりのうた』も早く見ないと。』


アバウト・ア・ボーイ
★4.2

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マーーーーーーーカス!!!!!!!
三十路越えの金に不自由してない無職男性と12歳にしてはいろいろなものを背負わされすぎているマーカスが出会ってエンヤコラという話だが、とにかくマーカスがかわいい。

ちょうどネトフリで見つけて「有名作だし見とくか~」と思って見たらめちゃくちゃかわいいじゃねえかよ。おおん? という感じでした。

ラストシーンも賛否両論あるかもしれないけど私は好きだったな。何というか一人の人間と添い遂げるだけじゃない生き方って絶対にあるし、それを誰かが責めることだってできないと思うので……。

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今回のMVPは満場一致でシング・ストリートでした。みんな見てくれ~~! 頼む~~!!


映画『シング・ストリート 未来へのうた』特別映像「A Beautiful Sea」

 

ふわふわだった彼女のことを思い出す

オフィスでは四六時中PCモニタの前に張り付いているので、気を抜くとすぐに2018年ブログの旅に出てしまう。

日記系のブログは良い。誰かの暮らしをお裾分けしてもらっているような感覚が楽しいし、何よりもそこにあるのはどうしようもないほどの「個」なので、大手新聞社やメディアが掲載しているネットニュースとはまた違った物語性がある。

はてなブログのトップには、日ごとにおすすめ記事のようなものが掲載されていて、そこを覗くのも好きだ。
先日、そこでくたびれはてこさんのブログに辿り着いた。

kutabirehateko.hateblo.jp


読んだ。私はこのエントリに対して語る言葉を持ち合わせていないな、と思った。何て言ったらいいか分からない、というよりも、本当に私が言えることはないなという感覚だ。

 

私自身は一般的な「死」という現象についてあまり悲観的な考えを持ち合わせていないし、いつか自分に訪れるそれについても特に嘆こうとは思わない。

何と言うか、仕方がないよなあと思うのだ。生きているものの身体はいつか死ぬ。それはどうしようもないことで、生きていくにあたってはその肉体の終わりに向かってどれだけ自分のこと(+αで他者)を愛せるかが重要になってくると思っている。(この辺りの私の思想は結構極端なのかもしれない)

こう言うとすごく薄情な人間と思われるかもしれないが、私は多分、今現在癌で闘病している祖父が亡くなった時、多分そんなに泣けないと思う。その時のことを想像すると、もちろんすごく悲しい。けれど、祖父は私の日々の生活に密接に関わっている存在ではなかった。祖父は遠方に暮らしているので、1年のうちに1度会うか会わないか、そういう関係だった。

 

一方、昨年の暮れに長年一緒に暮らしてきたお猫様がお隠れになった時は馬鹿みたいに泣いた。悲しかった。こうやってその時のことを思い出しながらキーボードを叩いている時にも、涙が滲んでいる。

彼女は間違いなく私の生活に欠かせない存在であり、姉妹のように育ってきたかけがえのない存在だった。そんな彼女にもう触れられないという現実は、私をひどく打ちのめした。

けれど、それにしたって、仕方がないことなのだ。いつかは来ると、分かりすぎていた別れだった。

昨年のこの出来事を経て、私は「いつも傍にいてくれた存在」を失うことについて知った。自分の中の一部がぽろっと抜け落ちてしまったような、そんな感覚を初めて味わった。その存在が自分と近ければ近いほど、一緒に暮らしているからこそ、つらいのだ。

けれど、私は平気な顔で生きている。彼女がお隠れになった直後でも、ご飯が喉を通らないなんてことはなかった。しっかり眠って、起きて、会社に行った。どうしようもなく生活は続いた。

今だって、たまにこうして思い出して涙を流すことはあっても、四六時中その喪失感で何も手に着かないなんてことはない。生活は続くし、その中で私は私自身をどうにかしていかなきゃいけないからだ。

 

そうやって少しずつ彼女のいない生活に慣れていくことは、決して不自然なことでも非人道的なことでもないし、むしろ当たり前のことなんだと思う。
結局のところ、彼女と過ごした時間や楽しかったという気持ちをたまに思い出しながら、私の人生はどうしようもなく続いていき、いつか終わるのだろう。

近しい存在を失うのはつらく、とても悲しいことだけれど、その時はいずれ絶対にやってくる。
だからこそ、そういう経験をした人に真の意味で他者が共感できることなんてないし、軽はずみな言葉を掛ける必要もない。
ただ「そうだったんだ」と受け止めるほかないのだと思う。

本当に手があたたかい人は心が冷たいのだろうか

何かに追い立てられるように買い物をしている。
通勤の時に使うためのトートバッグ、来月の旅行に持って行くリュック。

冬物が結構ダメになってきていることもあって、来月はこれに加えてセーターだったりスキニージーンズだったりヒートテックのインナーだったりと、とにかく買い物にたくさん行かないといけない見通しだ。

大層浮かれているなと思いつつ、何の記念でもないのに人へのプレゼントも買った。クリスマスまでまだ1ヶ月もあるのに。

せっかくだから双方の気分を盛り上げるためにiPhoneで「あわてんぼうのサンタクロース」を掛けながら渡したらいいのでは?と思い立ち、電車の中でAppleMusicを検索する。

とても思いやりのある解釈をすると児童施設でボランティアでもするかのようだが、残念、私は唐突なプレゼントを渡すことの口実探しという100%自分のためだけの理由であわてんぼうのサンタクロースを何種類も聞いた。
結局、そうやって準備をしている自分の姿に耐えられなくて普通に渡すことにしたのだけれど。

 

前に付き合っていた人も、すごく手足を冷やす人だった。対して、私は原則いつでも手足がぬくい。だからなのか、手足の冷たい人を見るとあったかくしてほしいなあと思う。なので、半ば衝動的に寒い季節に活躍する類のグッズを買ってしまった。

幼い頃、母の手があたたかいと言うと、「よく手があたたかい人は心が冷たいと言うけど、心のあたたかさがにじみ出てるんだよ」と謎の持論を展開してきたことを思い出す。

 

人に贈り物を選んでいる時間が好きだ。好意の押し付けと言われればそれまでだが、プレゼントしたいと思うのだから仕方がない。

何の記念日でもなくても、生きているうちで何万回と経験するような普通の平日に、さっと渡して驚かれたい。喜んでほしい。

自分が好きだと思ったものを誰かにあげたいと思えるのはすごく幸せなことのような気がしているので、私が飽きるまで暫くはこのドッキリプレゼント作戦を密かに遂行していきたいと思う。

しょうもないクソビデオで笑い合える相手のいる人生です

11月に入ってから、週末はほとんど人の家に泊っている。
泊めてくれた友達にその話をしたら、「不良女子高生みたいな」と言われて笑った。その通りだと思う。私は今になって遅れてきた反抗期を生きているのかもしれない。

実家の他にも帰るところが2つくらいあるというのはおかしな感じがするけれど、同時にとても心強い。


西荻窪駅からのバスに揺られながら、ぼんやりと車窓の向こう側の景色を眺める。分かっていたことだが、ぼちぼち酔った。私はかなり乗り物酔いをする。

スマホの画面を見ていると酔いが加速して吐き気がエクストリームなことになってしまうので、目をつぶって大人しくしていた。

途中で何かお弁当のようなものを持った人が乗ってきたのか、車内に空腹時にはたまらないタイプの芳香が立ち込める。生憎お腹は一杯で、どちらかというと胃液が暴れ出しそうな状態だったので、正直かなりきつい。

早く目的地で降ろしてくれ、と念じながら、西荻窪で過ごした2日間(大袈裟な言い方)のことを思い出す。

男性声優が合宿という大義名分のもとにカレーを作ったり(なんで?)、ひたすら直線コースをガンダしたり(これもなんで?)、枕投げ対決(これはまあ分からんでもない)をしたりするクソビデオを見ながらゲラゲラ笑える友達がいて良かった。

色々とやりきれないことの多い人生だけれど、しょうもないクソビデオを見ながら笑い合える友達がいるだけでそれはずっとずっと良いものになる。

ああ、なんか色んなことが大丈夫だなあ。ひとりでも大丈夫だなあ。
そんな風に思えるのはとても贅沢なことかもしれない。

容れものに過ぎないと思っていたけれど

朝、やや寝坊。時間がなかったのでアイメイクを諦めて、ラインだけ引いて家を出る。

もうすっかり冬物のコートを着てもいい季節になって嬉しい。冬から春に移り変わる季節とか、秋から冬の間とか、そういう所謂「季節の変わり目」にどんな格好をしたらいいのか分からないまま、あと2日で24歳になる。

 

出勤してPCのモニタをぼんやりと眺めながら、昨日の帰りに最寄り駅の改札で前の人のスイカの残額が5円だったことを思い出した。私のも現在残額5円なので、勝手に妙な親近感を覚える。

 

お昼はお寿司屋さん。回らないやつ。と言っても8貫600円というお手頃価格でランチが食べられるリーズナブルなありがたいお店だ。

最後まで残しておいた白身魚の握りを咀嚼しながら、フロアの店員さんが「会計が合わない」と話しているのを聞く。このお店には二週間に一度くらいのペースで来るのだけれど、いつも何かしらトラブルが起きているような気がする。

大変だなあと思いながらサービスのお味噌汁をありがたく頂き、帰社。

 

午後、仕事の合間にナショナルジオグラフィックのサイトで特集記事をいくつか読む。

イタリアのシチリアには19世紀の遺体(ミイラ)をたくさん展示している教会があって、インドネシアでは故人のミイラと暮らす習わしがあるらしい。驚いた。

 

natgeo.nikkeibp.co.jp

(記事内の動画、途中生贄の動物を殴打するシーンがあるので注意ですが、ミイラへの接し方とかレアだと思うのでぜひ見て欲しい)

 

常々、私は肉体を「容れもの」と捉えている節がある。もちろん極端な心身二元論を唱えたい訳ではなくて、何と言うか、身体の方に振り回されるのは勘弁だなあという感覚。 

身体の調子が悪いと精神的にも不安定になることが多いし、私は生物学上女性なので周期的に股から血が出る。そういうままならさを煩わしいと思うので、あまり肉体を重視できないきらいがあるのだと思う。

 

肉体。からだ。ミイラになれば形が残るんだな。

心はもともと目に見えないし、言葉も文章にしなければ視覚的には認識できない。けれど、文章にしたところで、その人のその時の表情とか、全てを記録しておくことはできない。

 

それを残すのが写真であり、さらに言えば動画なんだろう。けれど、動画だって、その人の吐いた息や肌のあたたかさは残せない。

 自分のからだが形として残るのって、どんな気分なんだろうか。そこにはもう生きているときの温度や動きはなく、ただそこに在るだけ。(いるというのは少し違うのだろう)

 

残された人たちは、私だったもの、私として生きていた容れものを見て、生前の私の熱や、言葉や、表情を思い出すのだろうか。

それは何だかとても不思議に思えるけれど、「特定の生物の死」という概念そのものを視覚的にこの世に残す唯一の方法なのかもしれない。

 

そんなことを考えながら、小腹が空いたのでポテチを食べた。オフィスで食べるおやつってどうしてあんなに美味しいんだろう。