「推し」という表現に対して長いこと感じていた違和感の正体を探る

今ではすっかりオタク市民権を得て数多のオタク達がこぞってSNSのプロフィールに書き連ねている「推し」という表現だが、私はどうも「○○推しです!」といった言説に対し違和感を感じることが多く、今回はその違和感について書いてみようと思う。

 

いつからか、私は「○○推し」という文脈をあまり使わないようになった。そうなったきっかけは単純明快で、ひとえに「アイドルマスターSideM」に出会ったためである。
これはSideMに関わらずアイドルマスターシリーズ特有の感覚であると言えると思うのだが、作中での我々(プレイヤー)の立場は「プロデューサー(以下:P)」であり、ファンではない。これについてはもちろん例外もあるし、ファンとしてコンテンツを楽しんでいる場合にもアイドルと真摯に向き合っているのであれば何も問題はないし両者の間に優劣はない。

ただ、アイドルマスターシリーズではこのPとしての立場が非常に明確になっているので、基本的にコンテンツにのめり込んでいる人間は自身のことをPとしてアイデンティファイし、担当アイドルと二人三脚で歩んで行くという精神性を備えていることが多い。

 

結論から言うと、この「キャラクターと二人三脚」という感覚の欠如が「推し」表現への違和感を加速させているように感じるのだ。
もちろんアイドルや芸能系のジャンルではない場合、キャラクターへの明確な立ち位置を定義することは難しい。でも、それであれば「このキャラクターのファンです」という宣言ではどうして駄目なのだろうか。

そのキャラクターのために人生の全てを掛けろ、と言いたい訳ではない。けれど、金銭面などの物理的な要素だけでなく、精神的な在り方としてもっとそのキャラクターに寄り添い、時に支え合いながら、「一緒に生きていく」ことができるんじゃないだろうか。

 

これは完全に私のオタクへの偏見まみれなので気を悪くされたら申し訳ないのだが、「推し」という表現には多大な自己満足と第三者へのポーズが含まれているように思う。もちろん「○○推しです!」と表明しているオタクは厳密には「同担拒否○○ガチ夢女子」といった存在とは毛色が違うとは思うのだが、それを考慮したとしても、「○○推し」という表明が自身の趣味趣向を第三者のオタク達へアピールするためのひとつの道具と化しているように感じる。(もちろんそこから同じ趣味を持つ者同士のコミュニケーションが始まることもあるだろう)

また、「○○推し」を表明すること自体が目的になってしまっているというか、「○○推し」宣言→○○のグッズを集める→SNSにアップみたいな流れがひとつの様式美として確立されてしまっているように感じられてならないのだ。つまり、極論、その表明そのものがキャラへの身勝手な欲の押し付けになってしまっているように見えるのである。

 

もちろん、こうした精神性及び行為が悪いと言いたい訳ではなない。そうした活動を本人が楽しんで行っているならそれは誰にだって咎められることではないし、どんな楽しみ方をしたってそれはその人の自由だ。

ただ、キャラクターにとってはどうだろうか? 私はついそう考えてしまう。

この話を突き詰めていくと「お前は二次元のキャラクターに人格を認めているのか」といったヤバい方向に行きそうなのであまり深追いはしないでおくが、つまりどういうことかというと、私はかねてより「あなたの○○推し表明にはその対象キャラクターへの尊重と愛がありますか?」と問いたくて仕方がないのである。「○○推し」というその表明が単なる自己アピールの道具として乱用されている時、そこにそのキャラクターへの「この人と一緒に歩んで行こう」という気持ちがあるのだろうかと考えてしまう。

 

繰り返すが、別に作品やキャラクターの愛で方は人それぞれで、そこに優劣はないと思う。ただ、姿勢の話として、「○○推し」と表明するなら、本当にそのキャラクターのことを尊重し例え一時でも人生を共にする気概があるのなら、それが単なるポーズに終わってはならないと思うのだ。

グッズを買うにもお金は掛かる。課金するにもお金は掛かる。けれど、例え二次元コンテンツにおいても、愛の深さ=お金ではないと私は思いたい。もちろんお金を落としてくれるオタクの方がコンテンツにとってはありがたい存在だろうと思う。けれど、私はもうこれ以上「○○推し」表明の大義名分のもとにキャラクター達が消費されていくのを見ていたくはない。

Symphonic Brave

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